主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

クリスチャンが神を愛し、正義を求め、隣人を愛していた頃、私たちは、彼らを尊敬し見習おうとしていました。

<なぜ、アメリカでキリスト教が衰退してきたのか?>


それは、違う宗教の人たちが入ってきたからではありません。好ましくないクリスチャンが増えてきたからだと思うのです。昔は、クリスチャンといえば、当たり前に信用ができたのです。だって神様を信じ、神さまのみ旨を求めて生きている人々じゃないですか。


それが、クリスチャンと称し、“クリスチャン”という看板で商売をする人たちや自分の利益ばかりを考えて、他人のことなど顧みない人たちが“自分はクリスチャンだ”と吹聴しているのを見たら、キリスト教という宗教を信用しなくならないでしょうか。


勿論、言わずもがな、そういう私もいたらない者です。自分こそ偽善者だと思わされることがあります。どうか私につまずかないでほしいと祈らざるをえない者です。が、(人間なのだから)それもしかたがないと“お尻をまくる”のは許されないと思っています。


キリスト教の精神は、「アメリカ・ファースト」ではありません。この「アメリカ・ファースト」というスローガンには、自分たちのためだけ、自分さえよければいいという考えに裏打ちされているように思えてなりません。


自分のことをしっかり考えることは、自分を大切にすることは、重要なことです。でも、主イエスは、先ず神を愛し、次に隣人を愛しなさいと仰いました。ここに“自分を愛せ”という言葉がないのは、私たちが、言われなくとも、当然“自分を愛する”からでしょう。


<昔のクリスチャンはやさしかった>


昔のクリスチャンはやさしかった。ほとんどみなさん(毎週でなくとも)教会に行っていました。普段行かない人でも、イースターとクリスマスには行ったのです。牧師の説教中に居眠りをしていても、献金をしたのです。


私たちがアメリカにきた50数年前の日曜日には、商店は勿論、ガソリンスタンドも閉まっていました。まるで、“安息日”でした。会社の管理者は、みんな白人で、みんな親切でした。何か困ったら助けてくれたのです。みんな“私はクリスチャンだ”などと言わないで、クリスチャン的な雰囲気をもって仕事をしていたのです。会社ではクリスマス・パーテイーがありました。グッドフライデーの午後は、教会に行かせてくれました。


だから、クリスチャンと言ったら、“良い人”でした。信仰などどうでもいいけれど、こういう人になりたいと思う人たちがクリスチャンでした。


でも、今は、クリスチャンと聞いたら、どんなクリスチャンだろうかと身構えなければならない状態です。


あの1月6日の暴動に参加した人たちのほとんどがいわゆる“保守的クリスチャンの信条”に賛同している人たちだったと聞いています。自分たちは、この国の伝統(保守的キリスト教文化)を守るのだ、自分たちの国が盗まれるという危機感をもって集まってきたというのです。


トランプ支持者の大半がいわゆるConservative Christian(保守的クリスチャン)で、Conservativeな教会は皆トランプを支持し、トランプに投票するように奨励したのです。あの(故チャック・スミスの)コストメサのカルバリチャペルでさえそうだったと聞いてびっくりしたのです。チャック・スミスは、あのヒッピーたちを受け入れた稀有なクリスチャンです。数年前、その教会でチャックの祈祷会に出席した時、明らかなゲイの青年たちを見かけたのです。


そのチャック・スミスの教会が平気で姦淫をし、口止め料を払っている人を推薦するようになった。ちなみに、“姦淫するな”は、神さまが人間に最初に与えた戒め、「十戒」の7番目の戒めですね。


私たちが苦闘していた時、多くのクリスチャンに助けられました。みなさん尊敬できる人たちでした。今のようクリスチャンの姿を見せつけられたら、誰がクリスチャンになろうとは思うでしょうか。


<主イエスに習う者がクリスチャンです>


昔、ブラジルからクリスチャンのグループが来て、宿を提供してくれと言われて、ふたりの方が我が家に泊まりました。数日、共にすごしたのですが、言葉がまったく通じないので手話と少ない単語で過ごしました。


食事時のお祈りを代わりばんこにしたのですが、最後に、アーメンと言ってお祈りを終えると、“あぁ、この人たちも同じ神さまを信じ、同じ信仰をもって生きている、兄弟姉妹なのだ”とうれしく思ったものです。


私たちがクリスチャンなら、主イエスに習うものであるなら、互いに愛し合おうではないですか。私たちは主にあってひとつです。


聖書を振り上げ、ゲイやトランスジェンダーを差別し、堕胎の問題では糾弾し、このように考えなければクリスチャンじゃないと言う。そういうことを聴くと、最近のクリスチャンは、すごく“偉くなったものだ”と感心してしまいます。


主イエスは、当時けがれた者、呪われた者と言われた“重い皮膚病”の人たちを癒されました。社会から疎外され、希望がない人たちに希望を与えたのです。


『 9:12 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。・・・わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。』(マタイによる福音書 9章12,13節)


アメリカがクリスチャン国でなくなったと嘆く前に、人々の目に「クリスチャン」という人たちがどのように映るだろうかということを考えてほしいと思います。


ちなみに、何十年も無実の罪で牢に入っている人で、イスラム教に帰依したという話は時々聞きますが、クリスチャンになったという話はあまり聞きません。多分、イスラム教徒の真剣さにキリスト教が太刀打ちできなくなったのだろうと思います。クリスチャンとしては悲しい話です。


文責: ロバート イー

「すべては導かれている―逆境を越え、人生を拓く五つの覚悟」を聴いて・・・


田坂広志が語る「すべては導かれている ー 逆境を越え、人生を拓く五つの覚悟 ー 」|あすか会議


<講演者:田坂広志、多摩大学院 教授/田坂塾・塾長/世界賢人会義 Club of Budapest 日本代表>


クリスチャンの友人から是非聴いてみてくださいというのが送られてきました。仏教、それも禅宗の教えに基づく講演でした。


病に侵され、お医者さんから見放され、もうダメ助かりませんと宣告された田坂氏が絶望の中にあった時に、人に勧められて、禅寺に行きました。


そこで、田坂氏は農作業をさせられるのですが、そこで、いろいろな病気を持ち身体的に困難を抱えている方々が積極的にその作業に取り組んでいる姿をみるのです。


寺に行って9日目ようやく禅師との接見があった時、田坂さんは、堰を切ったように自分の情況を話し、禅師の言葉を待ったのでした。さぞや深い勇気づけられる言葉が聴けると思ったのです。


そうしたら。禅師は、“あぁ、そうか、もう医者が見放したか”“そうか、もう命長くないか”と仰った。“はい”と答えると、禅師は、“そうか、命長くないか、、、、だがな、ひとつだけ言っておく、人間死ぬまで命はあるんだよ”


この言葉に田坂さんは、唖然としますが、(やがて)その言葉で、自分がもう死んでいた、心が死んでいたということに気が付くのです。ふりかえってみて、自分は、何ヶ月も過去を悔い、未来を憂い、死の恐怖の中で日々をすごしていたのだと思ったのです。


そして、最後に禅師が言った言葉、「過去はない、未来もない。あるのは、“永遠に続く今”だけだ。今を生きろ、今を生ききれ」という言葉が腹に響いてきたそうです。そして、その瞬間に「病を越えた」と言います。


病が治ったのではなく、(症状としての病は、それから10年続くのですが、)“あぁ、明日死のうが、明後日死のうがもうかまわん。ただ、この病に対する恐怖、不安、後悔・・・その為に今日という一日を無駄にすることは絶対にしない”“今日という一日を大切に、大切に精一杯に生きよう”“あした人生が終わりになるとしても、今日という一日は絶対に後悔のない生き方をしよう”、と思ったと言います。


そこから、田坂さんの“今を生きる、今を生ききる”「修行」が始まったという話です。すごい話です。


一時間ほどの緻密で説得力のある話を聞いて、禅宗というのが具体的にどういうものであるかが少しわかってきたように思いました。私のように仏教の素養のないものにも少しわかるように説明してくれたのです。


かつて(和尚と呼ばれた牧師)渡辺暢雄先生がおっしゃいましたが、仏教の思考は東洋の哲学ですから生半可に把握することは難しい深い思索です。


「今を生きる、今を生ききる」過去はない未来もない、あるのは永遠に続く“今”だけ。・・・これは、死を告知された者が“今日”を生きるのには、適切な言葉だと思います。


ですが、そういう危機感をもっていない者にとっては、“刹那主義”になる危険性があるのではないだろうかと思わされました。実際、私は、(若い時)そのように生きていた時がありました。今さえよければいい。いつ死んでもOK。私には、失うものがなかったからです。


それに、永遠に続く“今”という言葉で、私が思いだすのは、ギリシャ哲学の論理のなかに詭弁術というのがあって、覚えているのが「的に飛んで行く矢が瞬間的には止まっている」という表現です。この瞬間というのは、時間がとまった状態ですが、実際には、現実には、時間はあるという矛盾論です。


現実には、時間はあるし、過去も未来もあるのです。問題は、死んだ後どうなるんだということが残るだけなのです。もし、死んで、何もなくなるのか来世というものがあるのか?それがわからないから「死」がこわいのです。


私は、「修行して」今の逆境を乗り越えようとするより、その逆境をもエンジョイできればと思っています。それは、妻がいつも言っている言葉、Enjoy your situation ですが、神さまが与えてくださるものは、すべて感謝して受け止めることが出来ればと思うのです。


今、私は、まだ癌という病気とつきあい、心臓も弱ってきているようですが、いつ召されてもいいと思っています。私たちは、いつかかならず死にます。数年前に夫を失った日本に居る私の姉が「先に逝った方が勝ちだ」と言っていましたが、そう、残された人は可哀そうです。


使徒パウロは、「わたしにとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」と言いました。


此の世を去り、愛する人たちと別れるのは寂しく、悲しいものですが、クリスチャンには再会の楽しみがあります。来世に希望のある人は幸せです。


See you later, Alligator! (アメリカの子供たちの別れの言葉:又会おうぜ!)


文責:ロバート イー

私たちはひとり、裸で生まれ、裸で死んで行きますが、私たちには、希望があります。死の向こうに新天地があるのです

{FILE - Dr. Joseph Varon hugs and comforts a patient in the COVID-19 intensive care unit during Thanksgiving at the United Memorial Medical Center on November 26, 2020, in Houston, Texas. (Go Nakamura/Getty Images/AFP)}


皆さんもこの写真をご覧なったと思います。テキサスのUnited Memorial Medical Center でThanksgiving Day (感謝祭)の日、コロナ患者の年老いた患者がベットから降りて、しくしく泣きながらどこかに行こうとしていました。当直の医師、ジョセフ・ヴァーロンが“どうして泣いているの?”と訊きましたら、“I want to be with my wife”(妻と一緒にいたい)と答えたのです。


その時、同情したヴァーロンさんは、彼をしっかりと抱きかかえたのでした。


この写真は、そこに居合わせた、(コロナの病棟の中を記録していた)写真家、Go Nakamura氏がその姿をとらえたものです。


コロナで亡くなる人は悲惨です。徹底的に隔離され誰にも会えません。多くの患者が家族に会えないで死にました。家族は、お葬式も出来ないのです。


この年老いた患者が、“I want to be with my wife.”(妻と一緒にいたい)と言って、しくしく泣いていたというのには、もらい泣きさせられます。


Thanksgiving day (感謝祭)という日は、アメリカでの一番楽しい時です。いつもは、各地にちらばっている家族が一つのところに集まって、伝統的に七面鳥を焼き、フットボールを見ながら、ごちそうを食べる(食べすぎる)時です。なのに、コロナ病棟の患者さんたちは、ひとり取り残されるのです。


この写真がインターネットで拡散され、有名になった医師ジョセフ・ヴァーロンさんがCNNでインタビューされました。


ここでは、写真家 Go Nakamuraさんも話をしています。



医師ヴァーロンさんは、休みなしで256日、働いていると言っていました。看護婦さんたちも同じ状態だったと思います。患者にとって天使のような方々です。


CNNのインタビューで、ヴァーロンさんは、この年老いた患者さんが回復してきて、近々家に帰れそうだと語ったのが救いでした。


聖書には、私たちは、皆一人で死ぬのだということが書かれています。(ヨブ記1:21&テモテ一6章7節)、でも、イエスさまの贖いを信じる人びとは救われて天国に行けるとも書かれているのです。


「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネの福音書 3:16)


だから、神さまを信じなさい。イエスさまの贖いを信じることができれば、たとえ、コロナ病棟で妻に会えなくとも、天国で再会することが出来る。・・・それが聖書のメッセージです。


文責: ロバート イー