主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

落語で聞いた、「罪の許し」のお話

<「罪が許されるとは?」という落語を聞きました>


教会のSさんは、落語が上手です。人はみな彼女の話に引き込まれます。私は、Sさんのところに弟子入りしたいと思うくらいです。


その話のなかで、牧師が嫉妬するというところが現実味があって面白かったのです。


その落語は、イエスさまがあるおばあさんの枕元に現れて、いろいろな素晴らしいお話をされるというところから始まります。それで、みんながそのお話を聴きに行くというので、教会の牧師が嫉妬します。


で、その牧師がおばあさんに、「今度、イエスさまが現れたら、自分が救われる前に犯した一番悪い“罪”がなんであったか訊いてください。それを教えてくれたら、私はあなたの話を信じましょう」と言うのです。


それで、おばあさんが現れたイエスさまに訊きましたら。・・・イエスさまは、彼の救われる前に犯したすべての罪はみんな忘れたと答えたというのです。


<その落語を聴いて、学ばされること>


その牧師が、「自分が犯した一番悪かった“罪”を当ててみろ」というところで、私は、ダニエル書の王様がみた夢とその意味を当ててみろと、国の賢者たちに言ったというところを思いだしました。ところが、だれも言い当てたものがいなかったので、ついにダニエルが呼ばれて、それを言い当て、その意味を伝えるというところです。


その牧師は、嫉妬しただけでなく、疑い深い人でした。このおばあさんの言っていることが、本当なのか知りたいと思ったのです。聖書には、"信じるものになりなさい" とも "やたらに信じるな" とも書いてあります。こういう夢物語のようなものは、あまり信じられるものではありません。


ところが、イエスさまは、救われる前の悪事はみんな忘れたと言われた。・・・ということは、それをやった本人ももう忘れてしまっていいというのでしょうか?・・・自分の過去を、思い出したくない過去を忘れてしまえばいいのでしょうか?・・・


今、私たちの学びのグループで、旧約聖書のレビ記を学んでいるのですが、「神さまに罪を犯した時、罪を犯したことに "気がついた時" には、その罪の償いの供え物をしなければならない」(罪祭)と書かれています。そして、更に、「その過ちに対する罰としての捧げもの」(愆祭)をもしなければなりません。


一方、(その旧約聖書の続きである) 新約聖書には、イエスさまが、私たちのために、その償いをしてくださったのだから、神さまを信じイエスさまの贖いを信じなさい。"信じる" だけでいいんですよと書かれているのです。


それで、Sさんの噺の”落ち“は、だから、そういう神さまを信じ、もう自分の過去の罪のことで、“悔やんだりしなさんな” ということでした。だから、誰かが犯した過去の罪についても、いつまでも “責めたり、恨んだりしなさんな”ということでした。(パチパチパチ)


昔、あるクリスチャンの方から聞いたことですが、・・・私たちが神さまを信じ、イエスさまの贖いを信じるということは、


Your past is forgiven, (あなたの過去は、許され) Your present is blessed, (あなたの現在は、祝福され) , and Your future is guaranteed (あなたの未来は、保証された)」ということなのだと教えてくれました。


こんな欠けの多い者でも、許されて生かされている幸いを感謝しています。


罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。 』(ローマ人への手紙 6章23節)


文責: ロバート イー

反省しています。大谷選手がクリスチャンになったらというのは、身勝手な話でした。

(大谷選手とドジャースからの能登半島の災害援助について)


<夢かうつつか幻か>


そうですね。聖書に「老人は夢を見る」とありますが、本当に、大谷選手のような人がクリスチャンになってくれたら、いいなというのは夢ものがたりです。


大谷選手は、“誠実で、やさしくて、無作法をしない” 人ですよね。・・・ まさに、聖書の言葉を思いうかべるような人です。でも、仏教の人もイスラム教の人たちも自分たちの宗教に入ってくれたらと願うのではないでしょうか。彼には人を引き付けるものがあります。単に、名声とかお金を得て人生を謳歌するというようなタイプにはみえません。


<昔のクリスチャンって、みんなそうだったんです>


私たちは、56年前にアメリカに留学した貧乏学生でした。当時のアメリカ人は、皆クリスチャンで、みなさん親切でした。食べ物をシェアーしたり、困った人を助けるというのは、当たり前だったのです。


私たちのボロ車は、よく故障しました。立ち往生して困っていたら、どこででも見知らぬ人たちが車を止めて助けてくれました。


警官さえ親切でした。・・・サインを見落として、Uターンをしたら、ちょうどハイウエイパトロールがいて、すぐに止められました。“しまった!”と思いました。警官が来て、“運転免許書を見せなさい”と言われて、ポケットを探したら、“ない!”。ズボンを代えてあわてて、出てきたので、財布がない。・・・警官は、“すみません、あわてて出てきたので、・・・”と言い訳をする私の顔をジッとみて、“君は、悪い人間には見えないから、今回は許してあげます。でも、みんながそうするとはかぎらないから、気をつけるように”と言ってさっさと行ってしまいました。


数限りある、そういう昔のエピソードを思いだすと、今でも涙がにじみます。そういう人たちがいたから、私たちはなんとか生き延びてこられたのです・・・。


それなのに、50年経た今、そういう親切な人たちはいなくなり、毎日のように拳銃や自動小銃で人びとが殺されるようになってしまいました。


<大谷選手の立ち振る舞いに昔のクリスチャンの姿を思い出したのです>


愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 不正を喜ばずに真理を喜びます。』(第一コリント13章4~6節)


大谷選手は、ここに書かれたことを実行しているように見えるじゃないですか。だから、シンプルに“クリスチャンになったらいいな”と思っちゃうんです。ごめんなさい。


私は、もうテレビで野球の試合も見ないし、どのチームがどうなっているのかフォローもしていないのです。ですから、大谷選手を自分たちの仲間に引っ張ろうという魂胆が全然なかったわけではないのですが、こういう人がプロの野球選手の中に現れたということだけでうれしかったのです。結婚されて家庭をもたれたというのも(個人的には何の関係もないのだけれど)すごく喜ばしいニュースでした。みんなに知られずによくやりました。


<Give me a space = 少しほっといてください>


息子によく言われる言葉に、“Give me a space”というのがあります。直訳すれば “空間(距離)" をください”ということになるのですが、意訳すれば、“根掘り葉掘り聞いたりしないで、ほっといてください”という意味になります。


大谷選手は、大人気者です。彼の好きな「インアンドアウト・バーガー」にも食べにいけないのです。(買ってきてもらえば、フレンチフライはしなびてしまいます。)・・・映画にも、犬をつれてそのへんを散歩することもできないのです。・・・・これからどのように公共での生活をするのかわかりませんが、なんとか今のような牢獄にいるような生活からはぬけだしてほしいと思います。・・・あのバスケットボール選手、マイケル・ジョーダンは、ハンバーク店を貸し切ったそうですが、・・・。



最近のはなしですが、ある人がオーストラリアの高級レストランで食事をしていたら、今、人気絶頂の歌手テイラー・スウィフトのグループが食事をしていたそうです。そこの人たちは、サーブをしている人たちも他のお客も何事もないように食事をしていたそうです。大谷選手もそうできたらいいなと思います。


Let’s give him a space、わたしたちも、サインなどねだらない、写真をパチパチ撮らない。犬の散歩をじゃましない、気楽に食事を楽しませてやってほしいな、とそう思います。


文責: ロバート イー

神さまは、私の救い、とこしえの希望です

(イスラエルの岩のドーム:同じ天地創造の神さまを信じる、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教が混在しています。)


<独善的でない宗教はない>


「キリスト教とイスラム教は、排他的で独善的である。その点、仏教は、包容力がある」と言った人がいました。(元民主党小沢幹事長)・・・別に排他的になる必要はないかもしれませんが、ひとは、自分が信じているのが絶対だと思っているのですから、宗教というものは、結論的に、どんな宗教でも独善的になります。


アラブ(イスラム教)とイスラエル(ユダヤ教)は同じ神さまに仕えているのに、殺しあっています。これは、宗教的な争いというより、政治的争いですが。


<違う宗教の友を受け入れられるのだろうか?>


宗教に埋没しているひとは、それ以外の心情・信仰には賛同することはできません。私の数少ない、中学時代からの友人(親友だった)M君には何十年も会っていませんでしたが、昔の電話番号がまだ生きていて、電話をしたら、すぐにわかってくれて、会うことになりました。パンデミックが始まる前の年でした。


彼は、野球部のエースでした。ふざけてバッターボックスに入った時がありましたが、彼の投げるボールがあまりにも速いので、怖くて、バットを合わせることができませんでした。もし、彼がそのまま大学に進んでいたら、東京六大学のエースになっていたかもしれません。プロの選手になっていたかも。


たしか高校2年の時です、彼の父親が亡くなり、多分それがきっかけでしょうか、学校がミッションスクールなのに、創価学会に入りました。私は、その頃にはもう教会に行かなくなっていましたが、彼と議論をして、つかみ合いの喧嘩になりそうになったこともありました。本気でやったら、私に勝ち目はありませんでしたが。


久しぶりに会った彼には、昔の面影はなく(私もそうだったことでしょうが)、糖尿病で奥さんから腎臓をもらい靴もはけない状態で、スリッパをはいていました。彼は、創価学会の話、私は教会での話です。彼にとって「キリスト教徒は、きれい事の偽善者の集まり」であり、私にとって「創価学会の人たちは、この世の幸に執着した集団」ですが、もう、互いにつかみ合いをする元気もありません。


私たちは、ほとんど無言で、別れました。・・・とぼとぼと歩きながら、彼の人生を主が祝してくださるようにと祈りながら、歩いたのを思いだします。もう、彼と会うこともないだろうと思いながら・・・。


<違う宗教でも友達になれる場合があります>


彼は、厳格なムスリムでした。彼は、IBMで働いた優秀なエンジニアで、同じ会社の技術部の部長として働いており、私は生産管理部の部長でした。いつからともなくお昼をともにしました。彼には食べられないものがあるので、食べられるものを食べ、断食の時も私に付き合ってくれました。勿論、何も食べません。宗教の話をし、政治の話もしましたが、つかみあいになることはありませんでした。


イスラム教もキリスト教も同じ神さまを信じています。その為でしょうか、全然、違和感がないのです。お互いに違いを認め、RESPECT(尊重)することができたのです。私たちは、お互いに自分の信仰に忠実であろうとしていました。それなのに、私たちは、相手の信仰を認めたら、自分の信仰が成り立たないと思うことがなかったのです。


それは、お互いの人格を認めあったからというよりも、おたがいに「神さまは愛である」という不動の認識をもっていたからだと思います。・・・それに、ふたりに共通していたことは、自分が信じていることが完璧だとは考えていなかったことです。ふたりとも完璧になろうと努力をしていただけです。


ムスリムは、果てしなく厳格ですが、神さまに従い平和を愛する人たちです。ジハード(聖戦)という言葉を誤解し、憎しみに生きる人たちは、もはやムスリムではないのです。一方、愛を失った「律法」に固執し、ヤコブのように狡猾にふるまう人たちも、もはやイスラエル(神の民)とはみなされないのです。


<私たちの知るところは一部です>


コリントの手紙一13章12節


・・・今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。・・・


ロサンゼルス・ホーリネス教会の高木先生の話を聞きながら、・・・“そうなんだ、私たちは、そういう“ぼんやり”としか見えない神さまを信頼して生きている。・・・この神さまこそ本物なのだ。この神さまが 自分” を支えていてくれていると “ぼんやり" と”実感しているのです。・・・なんという幸いなことだろうか。それこそ、神さまの御業なのではないのだろうか。


だから、(私は)たとえ、ぼんやりとしか見えなくとも、、そこに映し出された、実存する神さまを追い求めていきたいと思うのです。


文責: ロバート イー