主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

「私たちが登る丘」(私たちは、負けない。自分たちの子供に良い国を残そうという詩)の朗読、アマンダ・ゴーマン

2021年1月6日にアメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件があり、1月20日にジョー・バイデン氏の大統領就任式がありました。その時、黄色いスーツを着た小柄な黒人の女性(少女)が現れ、就任式のための詩を(自分が作った詩)を朗読したのです。


Amanda Gorman delivers her poem at Joe Biden’s Inauguration on Jan. 20.  (Washington Post photo by Jonathan Newton).


アマンダ・ゴーマン(22歳)、カリフォルニア州ロサンゼルス市出身。幼少の頃は、言語障害になやまされましたが、後にハーバード大学で社会学を専攻し、在学中に青少年への英語の読み書きとリーダーシップ教育を支援する非営利団体を創設したそうです。(ウキペディア)


私たちは、テレビで就任式を見ていましたが、この詩にはびっくりさせられました。アメリカにもう53年いますが、英語の詩を理解するのはなかなか難しいのです。でも、この詩はそれほど難解なものではなく、終わりに“わたしたちは負けない。良い国を残そう”という彼女のパッションを感じました。


数日後に、原文を探していましたら、すでに、その日本語訳(by Yuko Ogasawara)が出ていて、これまたびっくりです。この方はよほど翻訳に長けているのでしょう。いやー、たいしたものです。でも、ところどころ変えたいところがあって、(大変失礼ですが)変更させていただきました。みなさんも、是非、読んでみてください。自分の感想は、最後に書きました。


英語の原文とOgasawaraさんのオリジナル訳は、こちらを参照:
https://www.esquire.com/jp/news/a35343543/amanda-gorman-s-poem-stole-the-show-at-the-inauguration-read-it-again-here/


「私たちが登る丘」アマンダ・ゴーマンの詩 抄訳:Yuka Ogasawara  補足:R. Yi


夜が明けると、私たちは自問する  この果てしなき暗闇の、どこに光を見出せようか?  私たちが抱える喪失  渡らなければならない海  私たちは窮地に果敢に立ち向かった  私たちは学んだ  沈黙がかならずしも平和とは限らず  当然だと思われていた規範や考えが  正義とは限らないことを 


それでも夜明けは  いつの間にか私たちにやってくる  私たちはなんとかやっていく  なんとか切り抜け、見届けてきた  国が壊れているのではなく、まだ未完成なのだ


私たちはこの国とこの時代の継承者だ  奴隷の子孫で母子家庭に育った  やせっぽちの黒人の少女が  大統領になる夢を持てる  そして気づけば  大統領のために詩を朗読している  もちろん私たちは、完成にはほど遠く  磨いていかなければならない  


だからといって  完璧な団結を目指しているわけではない  私たちが目指すのは、目的を持った団結  人間のあらゆる文化、肌の色、性格、状況を重視する国を  作り上げるために  だから私たちは上を向いて  私たちの間に立ちはだかるものではなく  私たちの前方にあるものを見据える 


私たちは未来を第一に考え,  互いのへだたりを狭めていく  私たちは、第一に互いの違いを脇にやらねばならない  私たちは武器を捨て  互いに手を差し伸べる  誰も傷つけず、全員の調和を求める  


世界にこれだけは真実だと言わしめよう  私たちは悲しんだけれど、成長したと  傷付いたけれど、望みを持ったと  くたびれても、努力したと  私たちは永遠に結ばれ、勝利を手に入れると  それは私たちが二度と敗北しないからではなく  二度と分断の種をまかないからと 


聖書にはこう書かれている  人はそれぞれ自分のぶどうの木の下  いちじくの木の下に座り 脅かすものは何もないと  この時代にふさわしい生き方をするならば  勝利は刃よるのではなく  私たちが架けてきた橋による  それこそが、私たちが登る丘の先にある


明るい約束の地  登る勇気さえあれば  アメリカ人であることは  ただの継承された誇りではない  過去に足を踏み入れ  いかに修復するかということ  この国を分け合うよりも  粉々にしようとする勢力があった、もしそれが民主主義を後退させる意図だったら  国自体を破壊しかねなかった  そして、その試みは危うく完遂されるところだった  しかし民主主義が足止めされても  完全に敗北することはあり得ない


この真実  私たちが信じるこの信念(信仰)未来を見据える私たちを歴史は見ている  現在は、私たちが初めに恐れていた  まさに罪を償う時代  私たちは、こんな恐ろしい時代を受け継ぐ  心の準備はできていなかった  しかし、やがて私たちは 新しい章の書き手となる力を見つけた  自分たちに希望と笑顔を与えるために


かつて私たちは「この惨事をどう克服できるというのか」と問いかけた  今なら断言できる「惨事が私たちに勝てるわけがない」と  私たちは、過去に後戻りするのではなく  未来に向かって進む  わが国は、傷ついたが壊れていない  情け深いが厳しく  激しくも自由な国だ  私たちは振り向かない  脅しにも屈しない  なぜなら行動を起こさず惰性に陥れば  次世代に受け継がれることを知っているから  私たちの過ちは、彼らの重荷となる


しかし1つだけ確かなことがある  慈悲と力を合わせ  力と正義を合わせれば  愛が私たちの遺産となり  子どもたちの生まれながらの権利を変えられる  だから与えられた国よりも  良い国を残そう  私の銅色の高鳴る胸が呼吸をするたび  私たちはこの傷ついた世界をすばらしいものに変える


私たちは、西の黄金の丘から立ち上がる  私たちは、祖先が革命を実現させた  風が吹き荒れる北東の地から立ち上がる  私たちは、湖に囲まれた中西部の町から立ち上がる  私たちは、太陽の照りつける南部から立ち上がる  私たちは、再建し、和解し、回復する  私たちの国のあらゆる場所で  多様で美しい人々が立ち上がる


打ちのめされても美しい人々が  そして夜が明けたら  熱く燃える私たちは  恐れずに暗闇から足を踏み出す  新しい夜明けは  私たちに解き放たれて花開く  光はつねにそこにあるのだから  それを見る勇気さえあれば  光となる勇気さえあれば 


***** (感想)*****


22歳の少女のようなアマンダ・ゴーマンさんの詩は、単に、民主主義を破壊するような出来事があったことに言及するだけではなく、移民の国、アメリカの根本的な問題を踏まえて、前方を見ているのです。アメリカには、なんと素晴らしい人材があることか、とつくづく思い知らされました。


「私たちはこの国とこの時代の継承者だ  奴隷の子孫で母子家庭に育った  やせっぽちの黒人の少女が大統領になる夢を持てる  そして気づけば  大統領のために詩を朗読している」


「だから与えられた国よりも  良い国を残そう  私の銅色の高鳴る胸が呼吸をするたび 私たちはこの傷ついた世界をすばらしいものに変える


奴隷の子孫で母子家庭に育った自分、その“銅色の”胸が呼吸するたびに、私たちはこの傷ついたこの世界をすばらしいものに変える。・・・なんと力強い宣言でしょうか。


アマンダ・ゴーマンさんは、今年のアメリカの最大スポーツエベント、スーパーボールの最初に詩を朗読するというチャンスも与えられました。人々が詩を読み詩に耳を傾ける機会が増えれば幸いだと話したそうです。


『1:1 いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず   1:2 主の教えを愛し  その教えを昼も夜も口ずさむ人。 1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。』(新共同訳:詩編1篇1~3節)


文責:ロバート イー

罪とは楽しいものですが、後で後悔するものです。

<罪の快感、罪は楽しい>


先日、罪は楽しいものという話を書いたら、多くの人から同感を得ました。みなさんも“やってはいけない”と言われたことをして、罪の快感を味わってきたのでしょうか。でも、誤解しないでください。そういう私は、だから、罪を犯していい、どんどんやれと言っているのではないのです。


聖書によると、最初の“人”が食べてはいけないという禁断の実を食べて死ぬものとなり、その後の人類はみな死ぬ運命になりました。でも、神さまはイエスさまを此の世に送ってくださり、私たちを救ってくださいました。それが「福音」(よいニュース)ですね。


<神さまは、なぜ“食べてはいけない木”を植えたのだろうか>


でも、神さまは、どうして“食べてはいけない木”などを植えたのでしょうか?これは、大きな疑問です。「教会」では、人に服従を教えるためだといいます。悪く言えば、食べるか食べないか試し、食べたら罰を下す(意地が悪いですね)又は、良く言えば、人を信頼していたと言います。なのに、人は、神さまの信頼を裏切って、その実を食べたのだと言います。


聖書に「主なる神はその人に命じて言われた、『あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう』」。(創世紀 2章16,17節)


この16節は、口語訳では、「どの木からでも“心のままに”食べてよい」、新改訳では「どの木からでも“思いのままに”食べてよい」、新共同訳では「すべての木からとってたべなさい」と訳されています。


そして、その次の17節では、“ただし”「“善悪を知る木”の実を食べると死にます」「だから、これだけは食べなさんな」と告げられるのです。


<神は人に、すべての木の実を食べる自由を与えた>


神さまは、(まず)人にすべての木の実を食べることができるようにしました。ここのところをよく読んでください。神さまは、人に自分の人生を自分の思いのままに生きる全面的な能力を与えたということの象徴的表現です。



人は、その「自由」で思いのままに生き続けることができるが、もし禁断の実を食べると“(間違いなく)死にます”ということです。


あなたには完全な自由があるけど、これだけはするな、これをすれば間違いなく死ぬから、ということです。要は、神さまは、それをするかどうかを人の意志にまかせたのです。


<人をそそのかした蛇は誰に造られたのですか>


創世記の3章で、狡猾な蛇に(アダムの妻)イブが巧みに誘惑されて、禁断の実を食べ、アダムにも食べさせます。そして、死ぬものとなりますが、同時に、人の目は開かれ“善悪を知る者”となります。


ここの表現も実に象徴的です。人は神さまと同じように“善悪を知るようになる”のです。もう神さまに“これをしても良いのでしょうか”とお伺いを立てる必要がなくなるということです。神さまが宜しくないと言っても、“俺はいい”と思えばやれるのです。この時、“人”は、文字通り100%の自由な存在となるのです。と同時に、100%の罪びとになる。


自由に思い、自由に振舞うことができるようになる。それで「それが罪だ!自我に死ね!」という先生もいます。それで、私は長いあいだ、そう思って苦しんでいたのです。


なぜ、神さまはそんな“蛇”を造られたのですか、神さまは完璧な人間を造られたのではなかったのですか。狡猾な“蛇”を造ったのも神さまではないですか。なぜ、騙されるような“人”を造ったのですか?みんな神さまの所為ではないですか、とも言えます。


創世記の1章で、神さまは、造られたものをご覧になり、“それは、はなはだ良かった”と満足されたのです。ということは、神さまが造られたものはすべて、神さまの思い通りにしあがったということですよね。


「創1:31 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。」


「万軍の【主】は誓って仰せられた。「必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、わたしの計ったとおりに成就する。」(イザヤ書 14章 24節)


ということは、神さまはミステイクをしないということです。では、どうして、このようなことが起こってしまったのでしょうか?


私は、Conservative(保守的で原理主義的)な教会で救われました。どこまでもわがままに育ってきたこの私を神さまの愛が捉えてくださったのです。それで、この神さまにどこまでもついて行こうと決断したのです。


私たち人類は、アダムとイブの罪により、破滅の坂道を転げ落ちて行った、それが“人間の姿”なのだと教えられました。このようなみじめな状態から神さまは私たちを救ってくださる。(自分の姿をながめれば)実に、その通りだと思うしかありませんでした。


ところがある時、辻本清臣先生から借りた英語の本の中に、今まで「原罪」と教えられたものは、神さまのご計画だったのだという解釈があるということを知ったのです。ということは、アダムとイブが神さまの戒めを破り、禁断の実(善悪を知る実)を食べて100%の自由を得るということは、神さまのご意志だったというのです。


神さまのクリエイション(創造物)で最も重要な概念は「自由」だったというのです。此の世が造られる前に神さまは、天界を造られます。天の使いも造られましたが、その一人があのサタンでした(ヨブ記)。サタンは、自分があまりにも素晴らしいので、神さまと同じように褒め称えられるべきだと思ったそうです。神さまは、天使にも自由を与えたというのです。


神さまは、機械的に反応するロボットをお造りにならない。自分の自由意志で神さまと交流できる存在として“人”を造られました。そんな私たちが「自由意思」で神さまを愛し、神さまのもとに行くことを願っておられるというのです。


マルチン・ルターがメランヒトンへの手紙で、「あなたが恵みの説教者であれば、作り物の恵みではなく、本物の恵みを説教しなさい。もしそれが本物の恵みであれば、作り物の罪ではなく本物の罪を負いなさい。神は作り物の罪人を救われない。本物の罪人でありなさい。大胆に罪を犯しなさい。しかし、もっと大胆にキリストを信じ、喜びなさい。」と書いたと聞いています。


マルチン・ルターは、勿論、罪をおかすことを奨励しているのではありません。私たち人間は罪を犯さざるをえない存在であるかもしれないけど、それ以上に、イエス・キリストの恵みの中で(自由に)活き活きと生きなさいという意味だと思います。


原罪論の枠内で神さまの恵みを小さくしないで、イエス・キリストの“無限の救いの力”によって、自由に大いに神さまを、救い主イエス・キリストを褒め称える者でありたいと思います。主の聖名は、ほむべきかな!


文責:ロバート イー

神は、“真実”という翼で私たちを覆います。そこで、生きる勇気をもらうのです。(詩篇91篇4節)

<「神の真実」という恵み>


長い信仰生活で神さまにつながって来られたのは、「神の真実」があったからだと思わされています。私は、神さまにしがみついていましたが、そんなことをする必要がなかったと今では思っています。


私は不安でした。神さまは本当にいるのだろうか、本当に私のことをケアーしている(心配してくれ、助けてくれている)のだろうかと。みなさんには、そういうことがなかったでしょうか。それを“サタンの試み”だとか、“不信仰”だとかと言って、ガンバレと奨励するのは簡単です。


そういう手探りの状態の中で、私を守ってくれたのは、この“神の真実”というみ言葉でした。自分の愛する御子を十字架にかけてまで、私を救ってくれたという(歴史的)“事実”のうちに「神の真実」があると思わされています。


<私たちには、自分に失望する時があります>


私たちは、自分を信頼する人々の期待に応えたいと思うのに、自分のエラーで試合に負けたというようなことがあります。死んでしまいたいと思います。自分に失望する時です。


オスカー候補になるだろうという映画をみました。私は、選考委員でないので、その映画の名前をお知らせできないのですが、アメリカに来た移民の話でした。


その中で、おばあさんが苦労している子供たちを助けようして、火事を起こして、せっかく収穫したものを全部消失してしまうというシーンがあります。


その直後、煤(すす)だらけのおばあさんは、ひとり当てもなく道を歩いていきます。孫ふたりがその後を追っていって、両手をひらいて道を防ぎ“あばあちゃん、家はあっちだよ”と言って、連れ帰るというところがあります。おばあちゃんの気持ちがよくわかる場面です。


自分が失敗した。他の誰をも責めることができない。否、誰かにその責任をなすりつけたとしても、実際に失敗したのは、この自分だという時、どこに救いを求めることができるでしょうか?私はよく余計なことをして失敗してきたのです。


<覆水盆に返らず>


「覆水盆に返らず」とは、こぼした水を器にもどすことは出来ない、やってしまったことは、やり直すことができない、という意味ですね。入学試験に失敗しても、翌年また試験を受けることは出来ますが、失敗したその試験をやり直すことは出来ません。


そういう時に、“笑ってしまえ、忘れてしまえ”、というのも一つも方法でしょうが、本当に笑えられますか、本当に忘れられますか?・・・私にはそうすることが出来ませんでした。


『主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。』(詩篇91篇4節)


私は、しばしば聖書のみ言葉によって力づけられました。この詩篇は、そういう時に思いだすことができるみ言葉です。自分がしてしまったことは、自分の過去は変えられません。でも、そんな自分を(自分自身が)そのまま受け入れることができるようになるには、主の翼の下に宿ることです。


私は、私たちは、その翼の中で、自分がイエスさまにあって新しくなったのだということを思いだすのです。それが洗礼です。私たち主に在るものは、日々新たなのです。


『6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。』(ローマ人への手紙6章4節)



主の翼の下で休息し、力を得たら、もう一度チャレンジしたいですね。大丈夫、私たちには、真実なる神さまがついています。神の愛と赦しは、私たちの力です。


文責: ロバート イー