主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

罪とは楽しいものですが、後で後悔するものです。

<罪の快感、罪は楽しい>


先日、罪は楽しいものという話を書いたら、多くの人から同感を得ました。みなさんも“やってはいけない”と言われたことをして、罪の快感を味わってきたのでしょうか。でも、誤解しないでください。そういう私は、だから、罪を犯していい、どんどんやれと言っているのではないのです。


聖書によると、最初の“人”が食べてはいけないという禁断の実を食べて死ぬものとなり、その後の人類はみな死ぬ運命になりました。でも、神さまはイエスさまを此の世に送ってくださり、私たちを救ってくださいました。それが「福音」(よいニュース)ですね。


<神さまは、なぜ“食べてはいけない木”を植えたのだろうか>


でも、神さまは、どうして“食べてはいけない木”などを植えたのでしょうか?これは、大きな疑問です。「教会」では、人に服従を教えるためだといいます。悪く言えば、食べるか食べないか試し、食べたら罰を下す(意地が悪いですね)又は、良く言えば、人を信頼していたと言います。なのに、人は、神さまの信頼を裏切って、その実を食べたのだと言います。


聖書に「主なる神はその人に命じて言われた、『あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう』」。(創世紀 2章16,17節)


この16節は、口語訳では、「どの木からでも“心のままに”食べてよい」、新改訳では「どの木からでも“思いのままに”食べてよい」、新共同訳では「すべての木からとってたべなさい」と訳されています。


そして、その次の17節では、“ただし”「“善悪を知る木”の実を食べると死にます」「だから、これだけは食べなさんな」と告げられるのです。


<神は人に、すべての木の実を食べる自由を与えた>


神さまは、(まず)人にすべての木の実を食べることができるようにしました。ここのところをよく読んでください。神さまは、人に自分の人生を自分の思いのままに生きる全面的な能力を与えたということの象徴的表現です。



人は、その「自由」で思いのままに生き続けることができるが、もし禁断の実を食べると“(間違いなく)死にます”ということです。


あなたには完全な自由があるけど、これだけはするな、これをすれば間違いなく死ぬから、ということです。要は、神さまは、それをするかどうかを人の意志にまかせたのです。


<人をそそのかした蛇は誰に造られたのですか>


創世記の3章で、狡猾な蛇に(アダムの妻)イブが巧みに誘惑されて、禁断の実を食べ、アダムにも食べさせます。そして、死ぬものとなりますが、同時に、人の目は開かれ“善悪を知る者”となります。


ここの表現も実に象徴的です。人は神さまと同じように“善悪を知るようになる”のです。もう神さまに“これをしても良いのでしょうか”とお伺いを立てる必要がなくなるということです。神さまが宜しくないと言っても、“俺はいい”と思えばやれるのです。この時、“人”は、文字通り100%の自由な存在となるのです。と同時に、100%の罪びとになる。


自由に思い、自由に振舞うことができるようになる。それで「それが罪だ!自我に死ね!」という先生もいます。それで、私は長いあいだ、そう思って苦しんでいたのです。


なぜ、神さまはそんな“蛇”を造られたのですか、神さまは完璧な人間を造られたのではなかったのですか。狡猾な“蛇”を造ったのも神さまではないですか。なぜ、騙されるような“人”を造ったのですか?みんな神さまの所為ではないですか、とも言えます。


創世記の1章で、神さまは、造られたものをご覧になり、“それは、はなはだ良かった”と満足されたのです。ということは、神さまが造られたものはすべて、神さまの思い通りにしあがったということですよね。


「創1:31 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。」


「万軍の【主】は誓って仰せられた。「必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、わたしの計ったとおりに成就する。」(イザヤ書 14章 24節)


ということは、神さまはミステイクをしないということです。では、どうして、このようなことが起こってしまったのでしょうか?


私は、Conservative(保守的で原理主義的)な教会で救われました。どこまでもわがままに育ってきたこの私を神さまの愛が捉えてくださったのです。それで、この神さまにどこまでもついて行こうと決断したのです。


私たち人類は、アダムとイブの罪により、破滅の坂道を転げ落ちて行った、それが“人間の姿”なのだと教えられました。このようなみじめな状態から神さまは私たちを救ってくださる。(自分の姿をながめれば)実に、その通りだと思うしかありませんでした。


ところがある時、辻本清臣先生から借りた英語の本の中に、今まで「原罪」と教えられたものは、神さまのご計画だったのだという解釈があるということを知ったのです。ということは、アダムとイブが神さまの戒めを破り、禁断の実(善悪を知る実)を食べて100%の自由を得るということは、神さまのご意志だったというのです。


神さまのクリエイション(創造物)で最も重要な概念は「自由」だったというのです。此の世が造られる前に神さまは、天界を造られます。天の使いも造られましたが、その一人があのサタンでした(ヨブ記)。サタンは、自分があまりにも素晴らしいので、神さまと同じように褒め称えられるべきだと思ったそうです。神さまは、天使にも自由を与えたというのです。


神さまは、機械的に反応するロボットをお造りにならない。自分の自由意志で神さまと交流できる存在として“人”を造られました。そんな私たちが「自由意思」で神さまを愛し、神さまのもとに行くことを願っておられるというのです。


マルチン・ルターがメランヒトンへの手紙で、「あなたが恵みの説教者であれば、作り物の恵みではなく、本物の恵みを説教しなさい。もしそれが本物の恵みであれば、作り物の罪ではなく本物の罪を負いなさい。神は作り物の罪人を救われない。本物の罪人でありなさい。大胆に罪を犯しなさい。しかし、もっと大胆にキリストを信じ、喜びなさい。」と書いたと聞いています。


マルチン・ルターは、勿論、罪をおかすことを奨励しているのではありません。私たち人間は罪を犯さざるをえない存在であるかもしれないけど、それ以上に、イエス・キリストの恵みの中で(自由に)活き活きと生きなさいという意味だと思います。


原罪論の枠内で神さまの恵みを小さくしないで、イエス・キリストの“無限の救いの力”によって、自由に大いに神さまを、救い主イエス・キリストを褒め称える者でありたいと思います。主の聖名は、ほむべきかな!


文責:ロバート イー

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