主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

喜びとは、最もシンプルな形の感謝である(Joy is the simplest form of gratitude )

(カール・バルト: Psephizoというところがこの写真のコピーライトをもっているらしいのですが、掲載許可がとれていません。)


<神学者、カール・バルト>


この「喜びとは、最もシンプルな感謝の形である。」という言葉は、神学者、カール・バルトが残したものだそうです。


カール・バルト(ドイツ語: Karl Barth, 1886年5月10日 - 1968年12月10日)は、20世紀のキリスト教神学に大きな影響を与えたスイスの神学者です。


彼の書いたものは沢山あり、キリスト教界で彼の名前を知らない人はいないと言っても過言ではないでしょう。


ただ、私はドイツ語が苦手で、どういう訳かドイツ語から日本語に訳されたものは、どれもみな私には難解なのです。それでも、彼の教会教義学やロマ書の講解など彼の有名な本は借りて読みました。


面白いことに、何度も読むと彼が伝えようとしていることはそんなに難しいことではないということがわかってきます。彼の本の解説の方がもっと難しい。


この"喜び"についての言葉は、わかりやすいですね。誰にでもわかります。喜びが何であるのか、それは感謝からくるのだというのです。



〈この「Leap of Faith」という映画は"喜び"について語っています〉


‭‭「Leap of Faith」とは、信仰をもって飛び跳ねるという意味ですが、何んだ、また信仰の話かと思われるでしょうか? いや、詐欺師の話です。インチキの"癒しの集会"で貧しい人たちからお金をまきあげる集団の中心人物、偽牧師の話です。‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬


その集会のためのテントなどを積んでいるトラックが、長いあいだ干ばつで困っているカンザスシティの街にさしかかった時に故障してしまいます。部品がくるのに数日かかるというので、そこで「癒しの集会」をやろうということになりました。


「癒しの集会」ですから、いろいろな身体に障害をもっている人たちが集まります。それで、あらかじめそういう人たちから情報を得ておいて、あたかも天からみ告げがあったかのように、その障害をいい当てるとみんな信じてしまうのです。・・・ でも、みんなが心配している干ばつについては、いつ雨がふるのかと訊かれても返事にこまって、話題をそらすしかありません。


そうこうしているうちに、本当に「奇跡」が起こってしまうのです。集会場に立てられた木彫りのイエス像の目が開き、歩けなかった少年が歩けるようになります。それで、彼は、もうインチキの癒しのまねごとをすることができなくなってしまいます。


癒された少年は、彼について行きたい、連れていってくれというのですが、彼は君が癒されたのは私の所為ではない。自分は、みんなに希望をあたえるショーをしていただけなんだと話すのです。でも、少年は、言うことをききません。彼は、それじゃ明日の朝会おうと約束して、先にヒッチハイクして逃げるのです。


トラックの運転手に“何か問題でも抱えているのかい? (それで、逃げてきたのか) ”と訊かれて、彼は笑いながら、“問題?” “とんでもない、自分は、生まれてはじめてすべての問題から解放されたんだ”と答えるのです。と、その時、大粒の水滴がトラックのガラスの上に落ちてきます。雨が、それも大雨が降ってきたのです。


トラックの中で彼は大喜びし、町の人たちは喜びおどるのです。雨がどんどん降ってくるのを見ながら、彼は心から(信じてはいない)神さまに感謝の叫び声をあげるというところで終わります。


「"喜び"とは、“最もシンプルな感謝の形”だ」ということがわかる映画でした。1992年(32年前)の映画です。


<蛇足>


聖書に有名な聖句で『いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。』 (1テサロニケ ‭5章 16‭~18‬ ‭節)‬‬‬‬‬という言葉があります。‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬


これは命令形で書かれていて、喜べなくても喜べ、祈れない状態でも祈れ、感謝できない時でも感謝しなさいと語られるのですが、バルトの表現をかりると、感謝から喜びになり、その喜びは、神さまをたたえる祈りとなり、その祈りは新たな感謝となってかえってくるのだと解釈することができるのです。


感謝―>喜びー>祈りー>感謝・・・です。 いずれにしても、無理することはないと思わされています。


文責: ロバート イー

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