主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

『静まって、わたしこそ神であることを知れ・・』聖書のみ言葉の力は聖霊の働きです

(最古の旧約聖書の写本:https://www.afpbb.com/articles/-/3101734?page=1&pid=18319448  からの引用)


<吉海さんのみ言葉>


昔の聖徒のみなさんの祈りは、まず聖書のみ言葉から入りました。


吉海さんもお祈りの前には必ず聖書のみ言葉が読まれるのですが、『静まって、わたしこそ神であることを知れ・・・』というみ言葉をよく使われました。そして、(おもむろに)“愛と慈しみにとみたもう天の父なる神さま”・・・とお祈りに入られるのでした。


吉海さんは、お年を召された方で、お話をされると入歯がカタカタとなりました。私たちが水曜日の夜の祈祷会に出席するようになっての一番めぐみは、こういう信仰の先輩の生きざまをみることができたことでした。よく背中をみて学ぶということをいいますが、それは本当のことです。


ある時、その吉海さんに、あの「静まって、わたしこそ神であることを知れ・・・」というみ言葉はどこにあるのでしょうかと尋ねましたら、「調べて、お知らせいたします」と丁重に仰り、4日後の礼拝の前に“詩編46篇10節”と書かれた紙を渡してくださいました。


それ以降、この詩編は吉海さんとしっかり結びついているのです。


<この詩編の訳は誤訳だと言われています>


よく口語訳でこの箇所を「静まれ」と訳されたのは間違いだといわれます。この言葉、“ラーファー”という原語(ヘブル語)には、「沈む、弱る、垂れる、捨てる、やめる」というような意味があるが、“静まる”という意味はないというのです。でも、私のヘブル語の辞書を参照しますと、“to be quiet” (静かにする)という意味も含まれていました。


いずれにしても、主要な意味は、“やめる、捨てる”ですが、私は、この「静まって」という言葉を神さまからの言葉として大切にしているのです。確かに、この詩編が書かれた背景を考慮すると、“自分で何かをしようとするのはやめなさい”ということだということがわかります。


この詩編は、紀元前701年に、アッスリヤの王セナケリブが何十万何千という大軍をもって、攻め上(のぼ)ってきて、エルサレムを包囲した時のことが歌われていると言われます。イスラエルの王、ヒゼキヤは、セナケリブの書状(侮蔑を含んだ降伏をうながす書状)をもって神殿にのぼります。


神殿にて、ヒゼキヤ王が神さまに訴えますと、神様は、預言者イザヤに語り、イザヤは、人をつかわして、ヒゼキヤ王に“心配することはない。セナケブリの軍隊は、攻撃することなく、都に入ることもない”、と伝えるのでした。


そして、その夜、神さまはアッスリヤの軍隊を撃ち、アッスリヤの兵士は、ばたばたと倒れます。驚いたセナケブリは、無数の(18万5千人)の死体をそのまま残して、引き上げて行ったのでした。・・・彼らは、コレラのような伝染病で瞬時に死んだのだろうと考えられていますが、・・・それは、(まさに)主なる神の業でした。


<私たちは窮地に立たされると>


私たちは、窮地に立たされるとあわてて何かしなければならないと思います。私はそうです。だまって落ち着いていることがなかなかできないんです。神さまを信じているんだから、“神さまを信頼して動揺するな”と言われます。そういわれても、(今は少しはよくなりましたが)慌てます。まだまだダメなんです。


そんな私にとって、この「静まって・・・」というみ言葉はとても大切なのです。


吉海さんが「静まって・・・」とみ言葉を語るとき、仕事を終えてかけつけてきた私、まだ(心の中に)仕事を抱えこんでいる私の心に、この神様の声が聞こえてくるのです。まず静まること、“全部やめて、ただ神さまをみあげなさい”というみ声が聞こえるのです。


静まらなければ、やめることはできない。捨てることはできない。と、私は思うのです。


毎日、何かしら心騒がす出来事がおこります。それは、つまらないことからより深刻なことにいたるまで心を騒がすことがあります。その時、このみ言葉を唱えてみてください。


『【口語訳】詩 46:10 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる。」


もし、私たちが主の前に静まり、その心を主なる神さまに向けることができれば、“すべてをつかさどる神が私たちを守っていてくださっているのだ”ということがじっくりとわかってくるように思われるのです。


文責: ロバート イー

×

非ログインユーザーとして返信する