主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

本物の信仰を持ち、本物の信仰を伝える者になりたいと思っています


<本物の信仰とはなにか>


本物の神さまは客観的なものです。バルトは、絶対的他者と言いました。手で触(さわ)れることができるくらいに実存する神さま、でも、かぎりなく遠くにいるので触れない。・・・この神さまを知るということから本物の信仰は始まると思うのです。そして、そのかぎりなく遠い神さまが(自ら)近づいてきてくださるのです。


私は、クリスチャン家庭で生まれ、生まれた時からキリスト教の教会に連れていかれたのです。だから、キリスト教会で語られる、“神さま”しか知りません。仏教やイスラム教やユダヤ教については非常に限られた知識しかもっていないのです。


しかも、私は、そのキリスト教会に通っているクリスチャンといわれる人たちが嫌いでした。教会で教える「教え」も浅薄なものでした。そこには、私の期待する実存の神さまは居ませんでした。観念的なよい教えなんて、現実にはなんの訳にもたたないと言って、軽蔑していたのです。小学生時代にですよ。だから、(自由になったら)行かないと決めました。


私は、“有限な人間は、無限な神を知る能力をもたない”という「不可知論」をもっていました。クリスチャンは、現実逃避、気休めの偽善者だと思っていましたし、自分は絶対にそういう仲間にはならないと決心したのです。


アメリカに来て、苦労して、どうしていいかわからない時、悲しくて死んでしまいたいと思った時を過ごしました。そして、そういう時、私は、あの無限に遠いあの神さまに涙をながしながら訴えた時があったのです。でも、神さまを信じたわけではなかった。神さまは、単に、怒りをぶっつける対象だったのです。


そんな私に神さまは、安藤さん(先生)の歌「我さえも愛したもう」というリバイバル聖歌を通して、語ってくださったのです。“神さまは、私を愛し助けてくれていたのだ”ということを教えてくれたのです。


その賛美を聞きながら、“もしかして、神さまって本当にいて、本当に自分のために助けてくれたのかも知れない”・・・“もしかして、この時も、、あの時も、、、”・・・。そう思いかえしていたら、お腹のそこから熱いものがこみ上げてきて、下を向いていた私のメガネの上に涙がぽたりぽたりとおちてきたのです。そして、そのたまった涙がメガネの縁から床におちていきました。・・・私は、それをじっと瞬きもせずに見つめていたのです。


帰宅してすぐ、私は寝室に行き、ベットの傍で跪いて祈りました。「神さま、あなたが本当に存在するなら、どうぞ私に教えてください。」・・・49年前の話です。


神さまは実存するのです。でも、私はあなたにそれを証明して見せることはできません。自分にもそれを証明して確認することが出来ないのです。でも、本物の神さまは実存し、私たちは、日々神さまと交流することができるのです。


<信仰者は、信仰と現実の狭間に生きる>


大学時代マルクスの資本論を読んでいた私は、アメリカに留学しに来て、生活するだけでいっぱいになって、“生きる”ということは、本当に大変なんだっていうことがわかってきました。大好きな観念論ってのは、遊びだったのだと本当にわかってきたのです。人は食べて生きているのです。でも、毎日食事をすることが出来ない人たちもいるのです。


私は、「役に立つ人間」になろうと思いました。それしか、ここアメリカで生きるすべがなかったのです。「もらう給料以上に働こう」と思いました。それで、結構出世をすることもできました。同時に嫌われて追い出されたこともありました。でも、私は、いつも現実を大切にしていました。きれいごとからはもう卒業したのです。


私たちは、みんな(全力をつくして)現実を生きているのです。みんな一生懸命に生きているのです。そういう人々の集まりを「社会」と呼び、お互いに尊重しあいながら毎日を生きているのです。そうでなければ「社会」は成り立たないのです。なのに、最近、その社会を否定するクリスチャンがどんどん増えてきているように思えるのです。


ある教会では、「この世の支配者はサタンの支配のもとに腐敗しているので、クリスチャンは、“そういう政府の政策"に抵抗しなくてはならない」と教えているのです。・・・アメリカ政府は、聖書が否定している、堕胎を容認している。同性愛者に賛同している。そういうことが、サタンに支配されている証拠だと言います。・・・マスクをしろとか、ワクチンをしろとかは、人々を支配するためのサタンの罠だと教えている教会もあるのだそうです。


コロナは、伝染病です。この病にかかったら死ぬかひどい苦しみに会うのです。人から人にうつる病気なのです。“俺は俺だ、自由にさせてくれ”と言える病気じゃないのです。・・・近代医学を否定し、自然医学を信奉する方々がいるのは結構です。でも、教会で、サタンを持ち出すのは大きな問題です。


イエス様は、山上の垂訓の中で、“5:33 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。5:34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。」と語られたのです。


つまり、神さまの聖名でいい加減なことを言うなと仰っているのです。再臨が近い、いついつ来るなどと預言的なことを言ってはならないのです。(本当の預言者は別ですが)


クリスチャンはいろいろな間違いをしてきました。魔女狩りもしました。あのヒットラーをサポートしユダヤ人たちを見殺しにしました。自らクリスチャンと自称し、教会の前で聖書を掲げて写真をとったあの(不道徳で嘘つきの)トランプに投票し、彼のために国会議事堂を襲った者もいたのです。


2千年以上前に、聖霊がくだり、キリスト教会が生まれました。それ以降、クリスチャンが間違った方向にいった時はいつも「主にある謙遜」を見失った時です。・・・私たちクリスチャンは、たまたま救われた“罪びと”だということを忘れないようにしなければならないと思うのです。


「神の選び」というのは、たまたま自分が救われたということの“総活的な表現”です。何も優れたものをもたない、この自分が救われたのは、神さまの恵だということ。それは誰も誇ることがないためだと書かれています。


主なる神は、「この世」を愛してくださいました。「この世」とは“私たちみんな”です。その中には、異教徒もあり、無神論者もあり、不可知論者もいるのです。神さまは、そういうすべての人たち、みんなが救われることを願われていると言うのです。


聖歌に「見ゆるところに依らずして」というのがありますが、盲目的に現実を見ないで、誰かの言っていることをそのまま信じなさいということを言っているのではないのです。この世の主要なメディアはみんなフェイク(嘘の)ニュースを流しているから、特定のニュースだけに耳を傾けなさいというのは異端的な考えを助長することになるのです。


使徒ヨハネは、『4:1 愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。』と語っています。


どうぞ偽預言者に気をつけてください。どうぞ偽預言者にならないようにしてください。本当の信仰は、イエスさまの愛が満ち溢れるものです。そういう愛が行き渡りますように、主にあって祈るものです。


文責: ロバート イー

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