主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

日本を愛し、神さまを愛した安利叔先生が立った教壇で


<安利叔先生は日本を愛した人でした>


私の韓国のパスポートを更新するためにロスの韓国公使館にいった時、韓国では“漢字”を使わないようになっていたので、私は自分の本籍も書けなくなってしまったのです。漢字入りの文をハングルだけに書き直してもらわなければならないのに、誰も助けてくれない。


長く待たされて途方にくれていた私たちに話しかけてくれた人がいました。その人は、金東明という牧師でした。自分は阪大で建築を学んだ者だけど、今は牧師をしているという人が助けてくれたのです。


「教会にはキムチもあるから遊びに来なさい」(当時はキムチを売っているところはありませんでした)と言われて、お礼参りに行きました。そこに、安利叔先生がいたのです。金先生の奥さんでした。


安先生は、妻が日本人だと知って、満面の笑みをたたえ、“韓国語の礼拝に行きましょう。私が通訳をしてあげるから”といって、両手で妻の腕を抱えてひっぱっていきました。


(後で知ったのですが)安先生は、日本を愛し、日本に空から火が降るという幻をみて(たぶん、原爆だろうと思われるのですが)日本のクリスチャンの指導者を訪ねて、助けを求めた方でした。天皇参拝を拒み“政治犯”として死刑の宣告をうけた方で、平城の監獄で処刑を待っていたのですが、終戦になって助かったという人でした。


そんな過去があるなんて、私たちは、何も知りませんでした。


お礼参りも終えて、忘れたころに、私たちには大きな問題が起こりました、申請した永住権が(不況のため)却下され、「出国退去命令」を受けたのでした。私は韓国へ妻は日本に行かなければならない状況でした。困った私たちに弁護士を紹介してくれたのが、安先生でした。


<安先生が有名になった>


それからしばらくして、ロスのダウンタウンのRobinsonというデパートで、安先生にばったり会ったのでした。あまりにご無沙汰していたので、ちょっと気まずかったように覚えています。「今、日本語で本を書いているから、出来たら読んでね」と言われたのです。


私たちは、結構忙しかったのです。仕事も忙しかったし、週末はいつもどこかにドライブしていました。ガソリンが安い時代で、車でちょっと出かけることが、楽しみでした。そんな私たちに知り合いになったホーリネス教会やフリーメソジスト教会の青年たちからいつも誘いの電話がきました。


その日、(どういう訳か)誘われたホーリネス教会の特別集会に行くことになりました。(韓国での話だと聞いたからかも知れません。)多分、金曜日の夕方だっただろうと思います。


講師の紹介があり、講壇に小柄な女性の姿が見えた時、ふたりは “あっ”と叫びました。安先生だったからです。安先生は、「私は、戦時中、“死刑囚”でした。・・・」と話しはじめたのです。


その晩、購入した先生の本「たとえそうでなくとも」という本を妻は、むさぼるように読んでいました。厚い本で、一頁が2段になっている本です。ヨセミテ公園でもその本を放しませんでした。そして、急に「私は、洗礼を受けて、クリスチャンになる。安先生のようになりたい。」と言い出したのです。私は「おいおい、少し勉強したほうがいいのじゃないのか?」と言ったのですが、本当にイースターに洗礼をうけたのです。(ふたりともミッションスクールでしたから、素地はありました。)


そして、クリスチャンになった妻のつきそいで、教会にかよううちに、夏の特別集会で、安藤秀世兄(今は牧師)の素晴らしい賛美「われは思う」というリバイバル聖歌で“神様の愛”に打たれ、“私”も信仰を与えられたのです。


<私は、安先生が話した同じ講壇に立っていた> 




昨日、私は、そのホーリネス教会の講壇で「放蕩息子」の話をさせていただきました。そして、安先生の御主人、金先生から聴いた実際にあったという話をさせていただいたのですが、その途中で、「あっ、(50年前)安先生は、ここで “私は、死刑囚でした・・・”という話をされた。・・ 私は、そのところで、みなさんに話をしているんだ!」という思いが起こったのです。


旧約聖書の出エジプト記の3章で、神さまがモーセを召命されるのですが、その時の言葉「・・・足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」という言葉が心に浮かんだのです。


102年の歴史のあるこの教会です。この教壇は造られて何年たっているのでしょうか。今までずーっと変わらない説教壇です。多くの牧師、著名な牧師が神さまのみことばをとりついできたところです。あの時、安先生が立ったところなのです。安先生は、自分を迫害する日本を日本人を心から愛しつづけた愛の人でした。そこに自分は立っていたのです。


金先生、安先生は、特別なものを残したお方ではありませんでした。神さまは、そういうお方を用いてくださって、迷っていた、私たち夫婦を探し出してくださったのです。


『3:4 主は彼がきて見定めようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。 3:5 神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。』(出エジプト記 3章 4,5節)


文責: ロバート イー

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