主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

(1)アーサー・ホーランドの入れ墨につまずいている人々に(第一部)


<アーサーは、純潔無垢の好青年だった>


“だった”と過去形をつかったのは、当時のアーサー(まだキャロライン愛子さんと婚約したての彼)は、愛子さんの手を握るのも躊躇するほどの純真(?)さをもっている人でした。そして、その純真さは、現在も(まったく)変わらないのです。


アーサーと愛子さんとは何十年も会っていません、2000年に成増教会に内緒で出かけたら、教壇で賛美の練習をしていた愛子さんに見つかってハグをしたのが最後だったから、愛子さんには21年も会っていません。アーサーとは北加での集会で会いましたが、それもまだ全身の入れ墨をする前だった(一部してたのかな?)と思います。


アーサーと愛子さんが日本に宣教師として行った直後に会ったように記憶していますが、アーサーはどのように日本で伝道していくかと考えているようでした。いろいろな抱負が語られたけど、その言葉のハシハシに現状の日本の教会・教団組織に問題があると語っていました。このままでは日本のリバイバル(*)は、おぼつかない。


(*リバイバルとは、宗教学上、広義には宗派における熱気を伴う信仰復興の意。)


そして、彼は、白い背広に赤いハンカチーフのド派手な格好で、東京のド真ん中で路傍伝道をはじめました。信号を待つ人々にショートメッセージをしたのです。すごい度胸だなと思いました。まさに「恥は我もの、栄光は主のもの」でした。


それから、みなさんご存じのように、やくざのミッション・バラバ伝道やバイクで伝道するようになるのですが、その過程で全身に入れ墨をするようになったのです。この時は、みんなびっくりしました。やりすぎると思った人は多いと思います。


(この入れ墨について)キャロラインはどう言っているのと彼に訊いたら、「She likes it」(彼女は好きだよ)という返事でした。勿論、キャロラインが嫌いだったら、彼は決してしません。どんなことでも彼とキャロラインは一緒なのです。何も聞いていないけど、それは訊くひつようもないことです。でも、なぜ、そんなことを(あえて)したかです。かっこいいから、好きだから、それもあるでしょうが、私はそれ以上だと思っています。


アーサーは、とても繊細で頭脳明晰なんです。理由なく(突拍子に)何かをする人じゃないのです。アーサーと愛子さんの人生の目的はただ一つ、日本の救霊なんです。そのためには何でもすることができるのです。私は、もうかなり前から彼らには脱帽しているのです。そのバイタリティー(体力)は勿論、精神力・情熱、すべてにおいてなみの人ではない。超人的に優れているのです。この力、情熱は上からくるとしか言いようがないのです。おおいなる方の力をうけて、十字架を担ぐ人なのです。


<日本のリバイバルのためにささげた人生>


私は日本に一年(2000年4月~2001年3月)の出向を命じられ、(息子がまだ高校生だったので)単身赴任したのです。


その期間、私は日本の教会の事情を知るために私のことを知らない教会をたずねることにしました。すべての教団の教会をカバーしたいと思いました。ルーテル教会にも行きましたが、どういう訳かカトリック教会だけにはいけませんでした。


そのようにした結論は、日本の教会では、全世界全宇宙を支配する神さまが伝えられていない、イエスさまは神の御子であって、“私”のために十字架という刑を受けられたという“実感”が伝えられていない。その話はされているのですが、教義的な説明でしかないように思いました。“わかっているね?”“はい、わかっています!”的な、知識レベルの確認で終わっている。


クリスチャンになるとは、この世の人に受け入れられる“良い人”になること。イエスさまが述べた山上の垂訓にならうもの、ならおうとする善人になること。まじめで清い生活をするものになることが勧められている。でも、そこには何かが欠けているのです。


岸義紘先生が日本にもどった時、「礼拝を日曜以外の日に持ってもいいのじゃないか」と言ったおかげで、日本のキリスト教界から3年間ボイコットされました。諸教会は「聖日厳守」を唱えていたからです。このように、日本のキリスト教界というのは、実に情けないほど狭いものなんです。


先日、天に帰えられた小坂忠さんとアーサーの対談を聴いていて、いまだにそうなんだと思わされたのです。形ばかりのクリスチャン、律法主義的なキリスト教会。これが日本のリバイバルを妨げている。


今現在、アーサーが自分の身体をつかって示していることは、「君の思うように“君らしく”生きなさい」ということです。「神さまを信じ、イエスさまのあがないを信じ、聖霊さまの力をうけて、たくましく生きなさい」ということです。「入れ墨したかったら、すればいい。入れ墨しているから私たちの教会には来ないでくださいという教会には行かなければいいんだ」と言っているのです。


アーサーは、(いつも)メッセージで言っています「私は罪びとです」と。彼のこの入れ墨は罪びとのシンボルなのです。そこに描かれたものは消えない(消さない)。私たちクリスチャンは、罪びとです。そうでなければイエスさまは、十字架につく必要はなかったのです。神の御子が素っ裸で、恥をしのび、“私の罪”を負ってくださった。あの耐えきれない“痛み”は私のためだった。あなたは、それを信じますか。それが救いなんです。


背広を着て、地味なネクタイをして、髪の毛をなでて、聖書を抱えて、15分前に教会堂のピユに座る。あっ、そうそう献金用の紙幣にはアイロンをかけましたね。(メソジストの教会員は今でもそうするのだそうです。)いいんですよ、馬鹿にしているのではないのです。個人的には、襟をはだけて入れ墨を見せているより好ましいと思います。


要は、あなたのうちに、私のうちに生きた神の霊が働いているのか、神さまに礼拝をささげる準備ができているのかです。・・・ところで、礼拝はどこでもできるのです。つまり、礼拝とは、日曜日に教会に行ってきましたということではないのです。


アーサーが身体で伝えてくれていることは、本物の信仰をもってあなたらしく生きなさいということに尽きると思うのです。メソジストでもペンテコステでもホーリネスでも聖公会でもカトリックでも何でもいいんです。私たちの神さまは、全世界を全宇宙を創られ、それを治めておられるお方です。今現在、生きて働かれておられるお方なのです。その神さまと共に生きることができるということを身体で見せているのがアーサーという(入れ墨だらけの)罪びとなのです。


キリスト教は、どのように生きたら幸いな人生を送られるかという教義ではないのです。この世に私たちが本当に望む“幸せ”などないのです。でも、それでも私たち主イエスを信じるものには希望があるのです。


小坂忠さんとアーサーの対談を聴いていてわかったことがあります。それは、ふたりの主にある伝道の情熱です。異常な熱意です。そして「教会の礼拝は、もらうんじゃなく、ささげる(さしあげる)こと」だってこと。そうなんですね、“神さまからの恵み”は、(いつも)願わなくてもいただいているんですよね。だから、礼拝は神さまにささげる日。賛美をささげ、栄光を神さまにささげ、“私自身”をささげるのですね。


アーサーから学ばされることは多いです。でも、私の心の中には昔のあの初々しいアーサーがいます。(いわずもがなだけど)いつまでも元気で主の御用にお励みください。キャロラインによろしく。


***** 続く *****


文責: ロバート イー

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