“初めに神は”という言葉が、聖書のすべてをもの語るように思います
<創世記一章一節>
文語訳 「元初(はじめ)に神(かみ)天地を創造(つくり)たまへり」
口語訳 「はじめに神は天と地とを創造された。」
欽定訳 「In the beginning God created the heaven and the earth」
<神さまって本当に居るの?>
神さまって本当に居るのですか?もし居るのでしたら、人間は神を認識することができるのでしょうか?私はそのことをずーっと考えていたようです。
私は、3代目のクリスチャンですが、そうなる前は、クリスチャンという人種が大嫌いでした。彼らの会話は幼稚で自己満足的、偽善的で“愛”のかけらもないのに、本人は愛の人だと思っている。・・・牧師も観念的な見方しかできない人ばかり、毎週、聖書に書かれていることに適当なことを付け加えて話しているだけのように見えます。(忙しいのはわかりますが)
私は、“これは身体にいい”というのが大嫌いです。癌になるとそういうものが送られてきます。そのほとんどがあまり根拠のないものなのに、人は藁をもつかむ思いで、そういうものを求めます。効かなくても、効くと思えば効くんだよといいます。私にはそういう信仰がないので、効きません。
そういう私が、突然、神さまの愛にふれたのです。51年前の夏、そんな自分が神さまの愛を感じたのです。土屋一臣先生が十字架の話をされ、安藤さん(今は牧師)が「われはおもふ」というリバイバル聖歌を歌いました。
“われはおもう わがため十字架にかかりて 罪のこの身あがないたもう 主の愛の深さを~・・・われさえも愛したもう・・・われさえも愛したもう・・・救い主の愛の深さ~・・・われさえも愛したもう”
私は、自分が罪びとだと思ったことがありませんでしたし、今でも、教会の教理的な罪意識はありません。でも、神さまから遠くはなれていたという意味での罪意識は十分にあります。
安藤さんの賛美を聴きながら、私は “神さまって本当にいるのだろうか?” “神さまは本当にアメリカにきて苦労してきた自分を助けてくれていたのだろうか?” “・・・もしかして、(認識はできないのだけど)本当にいるのかも知れない・・・” と、そう思った時、心の底から“熱いもの” がグワーッとこみ上げてきたのです。
その日、家に帰って(ベットの傍でひざまずき)「神さま、あなたが本当に居るのなら、私に教えてください」と祈りました。これが、“私の救い” の原点です。この日から、この居るか居ないか定かでない “存在” に私の全生涯をかけたのです。
<聖書は、神さまからのラブレター>
聖書は、神さまからのラブレターだと言われます。本当にそうだと思うのです。私は、神さまに祈ってから聖書を読みはじめました。そして、この50年間 “神さまの愛“ を確かめてきたのです。
旧約聖書の冒頭の「はじめに神は・・・」というのは天地創造の話です。神は無から有を創られました。私の祖先を創り、私を創られた神さまです。そして、神ご自身は、初めから存在していたのだというのです。
神さまは、モーセにエジプトで奴隷になっているユダヤ民族(イスラエル民族)を救い出せと命じます。モーセは、自分にはそんな大仕事はできませんと辞退するのですが、神さまは “私がついているから大丈夫だ” と言います。・・・(誰でもそんなことは不可能だと思うことでしょう。相手は、大国エジプトです。)
モーセは、“私は何者でしょう。もし、彼らが「神さま、神さまっていうけど、それはどんな神さまなんだ? どんな名前なのか」と訊いたら、なんと答えたらいいのでしょうか?” と訊くと、神さまは “わたしは有って有るもの”、“私の名前は「有って有るもの」(yhwh)と答えます。(これが神聖な4文字と言われるものです。)
この「有って有るお方」が天地を造られ、私たちを造られ、すべてを治められると聖書に書かれているのです。・・・このお方が最終的な権威をもっているのです。・・・このお方が私たちのために “永遠の住まい” を用意していてくださっているというのです。・・・これが神さまを信じる者たちの希望です。そして、この希望は、「神の愛」によって確信することが出来るというのです。・・・
『この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』(ローマの信徒への手紙5章5節)
2024年、信仰51年目を迎え、自分の原点にたちかえりたいと思わされています。・・・皆さま 良いお年をお迎えください。
文責: ロバート イー