主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

Snoopyの悩み、“愛”とはなにか?

   Dearest Darling, 
 親愛なる最愛の人よ


   How I love you、
 私があなたをどんなに愛していることか


   Words cannot tell how much I love you、
 私がどんなにあなたを愛しているか、言葉では言い表せません。


   So, forget it、
 だから(どうぞ)忘れてください


<“愛”とは不思議なものです>


“愛”とは不思議な感情です。


親は子供を愛します。自分が“親”になると、それがわかります。“自分の子供”です。当たり前なんですが、その感情がどこからくるのか私たちにはわからないのです。


例外もあります。生まれたての赤子をダンプに捨てる親もいますが、それは例外中の例外で、普通は、自分の命に代えてでも、自分の子供を守ろうとします。


私たちは、異性を意識し愛します。昔は、男性同士の「友情」を最も崇高なものと考えられたものでした。韓国では今でもそうだと思います。男の友情は、命を懸ける友情です。・・・最近は、性的な関係を持つようになってきているみたいだけど???


私たちが生まれ持った“愛する”という感情をギリシャの哲学者プラトンは分析し論理化して「エロース」と名付けました。俗に、「エロース」を男女の性的な愛と理解するのですが、とんでもないのです。この愛という概念は、後にカント哲学やヘーゲル哲学に影響を与えたものでした。


<聖書で使われた“愛”という言葉>


なのに、聖書には「エロース」という言葉が出てきません。


新約聖書で使われている「愛」という言葉は、アガペー/(動詞)アガパオーが253回、しばしば“友情”という意味で使われたフィリア/フィリオー(動詞)が26回使われているとのことですが、私は、かぞえていません。アガペー/アガパオー(動詞)が253回です、ちゃんと数えた人がいるんですから、たいしたものです。


イエスさまが生まれる400年前にプラトンが「人の愛」を“エロース”という言葉で概念規定したのに、聖書には「エロース」という言葉が出てこない。


アガペーという言葉もイエスさまが「神の愛」を表現するために用いたもので、もともとのアガペーという言葉は、希薄な内容で、あまり使われなかったものだったようです。ですから、イエスさまは、あえてそういう言葉を使って、「神さまの愛」を表現したものと言えるのです。


聖書に「ツロフェニキアの女」の話が出てきます。イエスさまの後についてきて「自分の娘の病をいやしてくれ」と叫びつづけたのでした。この母親の愛は、“エロース”なのですが、「エロース」とは書かれていないのです。でも、イエスさまは、彼女の“信仰”をほめ、娘を癒してくださいました。


イエスさまは、エロースを否定されません。それは、人間が持って生まれた愛、神さまが与えてくれた“愛”ですから。・・・ですが、イエスさまが伝えたいと思われた“愛”は、「人間の愛」(エロース)ではなく、「神の愛」(アガペー)でした。


<トルストイと有島武郎>


トルストイは、神の愛(アガペー)を「惜しみなく与える愛」と表現したのですが、有島武郎はそれに対して「愛は惜しみなく奪う」とアンチテーゼを書いたのです。


有島武郎、曰く(いわく)“もし愛が相互的に働く場合には、私達は争って互に互を奪い合う。決して与え合うのではない。その結果、私達は互に何物をも失うことがなく互に獲得する。”


有島武郎のこの論文は、私たちに「人間の愛」の本質を教えてくれるかもしれませんが、人の愛(エロース)にこだわっていては、「神の愛」(アガペー)を見失います。


たとえ、私たちの愛がエロースでも、「神さまの愛」は、やはりアガペー(与える愛)なのです。・・・イエスさまは、その愛(アガペー)を語っただけではありませんでした。私たちのために十字架の刑を受けられたのです。全人類の救いのためにその命を与えてくださったのです。


『13:3 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。 13:4 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。 13:5 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 13:6 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 13:7 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。 13:8 愛はいつまでも絶えることがない。・・・しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。』(コリント人への第一の手紙 13章)


文責: ロバート イー

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