主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

(2)アーサー・ホーランドの入れ墨につまずいている人々に(第二部)


<アーサーは、純潔無垢の好青年だったのか???


そうです。アーサーは、間違いなく純粋無垢な好青年“だった”。それは、その頃の彼を知る人が証言することです。婚約者、キャロライン愛子さんが彼の真相(?)を見抜いていたのかわからないけど、聡明な彼女のことだから、否、女性のハンチ(直感)で将来の彼の姿を見通していたのかもしれません・・・。


夜の祈祷会で、辻本先生に、「そんな日本語で、日本で伝道できると思っているのか!」って怒られていた時、ひやひやしたのを思いだします。“アーサーが可哀想”と思ったのは私ひとりじゃなかったと思います。


彼、アーサー・ホーランドは、アメリカ人の海兵隊の父と日本人のすし屋の娘の母との間に生まれたハーフで、「浪花のブルックリン」と言われる、大阪市成城区で名を売った“悪”だったのです。その彼がアメリカに来て、救われてクリスチャンになった。そして日本での伝道に心をもやしていた頃に私たちは彼と同じ教会ですごしたのです。


彼の本「不良牧師」によると、その彼の姿は、救われて神さまに喜ばれる者になろうと全力をつくしていた時だというのです。イエスさまは、彼を悪の過去から救いだされた。言ってみれば典型的なクリスチャンの救いの証です。その彼が伝道の熱意から、また、本当の信仰というのは“本音”なんだ。その本音が日本を救うんだ。というメッセージを伝えるようになった、と第一部で書きました。


ここて終えたら、アーサーに叱られる。否、失望されると思って、{続き}を書いているのです。彼の生きざまは、そんな生易しいものではないと思うのです。


<不良牧師、の生き方>


彼は、よく「イエスは素っ裸で十字架につけられた」とメッセージしています。それを見ていた人たちは、イエスの服を分け合っていたのです。アーサーは、自ら素っ裸になって、自分の罪を告白し、その生きざまをさらけだしているのです。それでも、私は救われているんですよ!って叫んでいるんです。


アーサーは、手がつけられないくらいの悪党だった。そんな自分を誇りさえすれ、後ろめたさなどみじんもない。その彼が救われた。彼の人生は180度変わったのです。小さな虫一匹も殺さぬ好青年に変貌したのです。神さまの恵みです。聖霊の働きです。彼の身体から発散されるのは「神さまの愛」だけなのです。


ところが日本に行ったら、また、もとのもくあみ、不良に逆戻り? 否、そうじゃないんですね。・・・第一部で述べたように、アーサーは、日本のキリスト教会の問題に突き当たりました。それは、表ばかりかざって“本音”がない。「本当の福音」が伝わらない。伝えていないと知らされた、と同時に「自分も“自分でない”自分で生きていた」ということを示されたのです。


論理学に弁証法というのがあります。矛盾論とも言いますが、Aである、Aでない。Bである、Bでない。Cである・・・という風に展開される論理方法で、かのソクラテスまでたどれる論法です。


実際、“クリスチャン”という独特の“型”があるんです。長くクリスチャン生活(日曜日の礼拝、水曜の夜の祈祷会に出て、み言葉を学び讃美歌を歌い証をする)を続けていくと形ができてくる。問題は、形が中身よりも重要になってくる。そしてそのギャップに悩むようになる。否、悩まなくなる人もいる。それは、牧師が陥る穴で、サタンのわざだと思います。



彼の本「不良牧師!アーサー・ホーランドという生き方」(文芸春秋)によると彼の親友、松沢秀章に会って、その生きざまを見て、アーサーは「自分でない自分で生きていた」とわかったようです。つまり、どんなにいい恰好しても“救われたことにはならない”、否、それは「砂の上に建てられた家なんだ」とわかったのです。これはすごいことです。


とにかく俺と松沢は、新宿の歌舞伎町の飲み屋で朝まで語り合う。そして、そこで奴の泣きが入ったり、ある時は朝帰りの途中でヤクザに喧嘩を売る。あわてて俺が止めに入るという具合だ。またある時は、道路でゲロを吐く、こいつとつき会っていくととんでもないことになると俺は思う。こいつは自分のタブーを全部破って生きていると・・・普通ならあれだけやると、タブーの中でいきている奴は罪悪感を感じて神に見捨てられたと思うはずなのに、こいつはタブーをぶち破りながら、例えば酒を飲み、タバコを吸いながら、ジーザスが大好きだと公言する。これはたいしたものだ。普通だったら雲のような存在の方に気に入れられるために、これもやめます、あれもやめますというところだ。それが「俺やめられません。これやります。イエス様一緒にやりましょう」とジーザスを引きずりだしてくる。この信仰がすごいなと思った。


これは、その本「不良牧師」からの抜粋ですが、アーサーという人がいかにするどい洞察力と論理性に優れているかを示しています。これは世界に通じる神学です。もし、C.S.ルイスが生きていたら、私と一緒にもろ手をあげて賞賛したことでしょう。


アーサーは、神さまが与えてくれた友、松沢というひとの生きざまから、その「神さまを引きずり出す信仰」を見て、それをみごとに表現したのです。それは、聖書にある、あの長血の女がイエスさまの服のはしをひそかに触った信仰や大声をあげてイエスさまにどこまでもついて行き、ついにイエスさまの哀れみを勝ち取った母親の信仰。・・・そういう必死の信仰にまさる信仰の在り方が表現されているのです。


<イエスさまは、罪びとと食事をした>


“自分は罪びとです”と言う。そんなこと、わかっているからもう言うな。本当は、その「罪びと」から卒業していると思って(思いあがって)いるんだから、もう言うな!!!


もう、“一緒にイエスさまのところに行こう。”“イエスさまと一緒にタダでおいしい食事をしょうよ。”と言うのじゃない。・・・みんなで楽しく食事をしているイエスさまを引っ張りだして、新宿歌舞伎町の飲み屋で安酒を飲むんです、一緒に。そして、泣きをいれる。そういう信仰(も)あるということです。


【新改訳改訂第3版】Ⅰコリ 10:23 すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。


・・・全身に入れ墨をするは、朝帰りするは、重い十字架かついであっちこっち行くは、バイクで世界中をはしりまわるは、・・・こんな旦那をもったキャロラインはどんな信仰の変化をとげたことでしょうか。このアーサーという預言者を支えているのは、彼女なんですね。でも心配ない、娘さんのローレンが立派に育って、神さまを賛美しているんですから。


**** さぁ、この続きは、みなさんで書いてください ****


文責: ロバート イー

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