主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

神は、“真実”という翼で私たちを覆います。そこで、生きる勇気をもらうのです。(詩篇91篇4節)

<「神の真実」という恵み>


長い信仰生活で神さまにつながって来られたのは、「神の真実」があったからだと思わされています。私は、神さまにしがみついていましたが、そんなことをする必要がなかったと今では思っています。


私は不安でした。神さまは本当にいるのだろうか、本当に私のことをケアーしている(心配してくれ、助けてくれている)のだろうかと。みなさんには、そういうことがなかったでしょうか。それを“サタンの試み”だとか、“不信仰”だとかと言って、ガンバレと奨励するのは簡単です。


そういう手探りの状態の中で、私を守ってくれたのは、この“神の真実”というみ言葉でした。自分の愛する御子を十字架にかけてまで、私を救ってくれたという(歴史的)“事実”のうちに「神の真実」があると思わされています。


<私たちには、自分に失望する時があります>


私たちは、自分を信頼する人々の期待に応えたいと思うのに、自分のエラーで試合に負けたというようなことがあります。死んでしまいたいと思います。自分に失望する時です。


オスカー候補になるだろうという映画をみました。私は、選考委員でないので、その映画の名前をお知らせできないのですが、アメリカに来た移民の話でした。


その中で、おばあさんが苦労している子供たちを助けようして、火事を起こして、せっかく収穫したものを全部消失してしまうというシーンがあります。


その直後、煤(すす)だらけのおばあさんは、ひとり当てもなく道を歩いていきます。孫ふたりがその後を追っていって、両手をひらいて道を防ぎ“あばあちゃん、家はあっちだよ”と言って、連れ帰るというところがあります。おばあちゃんの気持ちがよくわかる場面です。


自分が失敗した。他の誰をも責めることができない。否、誰かにその責任をなすりつけたとしても、実際に失敗したのは、この自分だという時、どこに救いを求めることができるでしょうか?私はよく余計なことをして失敗してきたのです。


<覆水盆に返らず>


「覆水盆に返らず」とは、こぼした水を器にもどすことは出来ない、やってしまったことは、やり直すことができない、という意味ですね。入学試験に失敗しても、翌年また試験を受けることは出来ますが、失敗したその試験をやり直すことは出来ません。


そういう時に、“笑ってしまえ、忘れてしまえ”、というのも一つも方法でしょうが、本当に笑えられますか、本当に忘れられますか?・・・私にはそうすることが出来ませんでした。


『主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。』(詩篇91篇4節)


私は、しばしば聖書のみ言葉によって力づけられました。この詩篇は、そういう時に思いだすことができるみ言葉です。自分がしてしまったことは、自分の過去は変えられません。でも、そんな自分を(自分自身が)そのまま受け入れることができるようになるには、主の翼の下に宿ることです。


私は、私たちは、その翼の中で、自分がイエスさまにあって新しくなったのだということを思いだすのです。それが洗礼です。私たち主に在るものは、日々新たなのです。


『6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。』(ローマ人への手紙6章4節)



主の翼の下で休息し、力を得たら、もう一度チャレンジしたいですね。大丈夫、私たちには、真実なる神さまがついています。神の愛と赦しは、私たちの力です。


文責: ロバート イー

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