主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

信仰者は、此の世の「政治」にどのようにかかわるべきなのだろうか(1) ・・・  ー  <宗教と政治は話題にしない> ー

宗教と政治については話題にしない、と言われます。それは、議論になって、あまり有意義な時を持つことができないからです。でも、違う考えに人がお互いに歩みあうことができれば、話題にするのも許されるかなと思っています。


昨年の大統領選挙では、アメリカが真っ二つに分かれ、夜も寝られない時を過ごした人もいたことだろうと推察します。政治は、単に政府の人事の問題ではなく、私たちの日常の生活に関わることです。


そういう状況の中で、私を悩ましたことは、教会が、否、教会の牧師たちが誰々に投票しなさいというような指示をしたということです。誰々はクリスチャンだからとか、否、彼はクリスチャンのわけはないとか喧々囂々でした。未だに争っている人もいます。


〈クリスチャンとは何か>


私は、(祈れば山が動く、祈ればどんな病気も癒される、信仰がすべてを律するという)きわめて保守的で原理主義的な教会で救われました。そして、そういう教会のみが“本当”の神の教会だと信じていたのです。


どこに行く時も聖書を離さず、聖書は文字通りボロボロになるまで読みました。聖書を文字通りに読み、聖書のみ言葉に従って生きるのが“本当”のクリスチャンという考えです。ですから、当然、他の宗派には批判的で、カトリック教会に対しても良い評価をしていませんでした。


神さまは、そんな私にいろいろな経験をさせてくださり、(今では)イエス・キリストを贖い主と信じる人々は、(たとえ、どんな信条を持っていても)みんな“本当”のクリスチャンだと認めるようになったのです。


<教会と此の世の関係>


そういう保守的・原理的な信仰を持った私は、「ホームレスに食事を提供するとかバザーなどして資金を募るというような教会は“本末転倒”している」と批判していました。教会は「神の家」、礼拝と福音伝道に直接係わらない社会事業に傾倒するのは、教会を単なる福祉団体にしてしまうものだと糾弾していました。


教会は、祈りの家です、神さまと交わるところです。それは、過去から未来永劫にわたり、誤りない見方だと思います。でも、それだけではないと主は私に示されたのです。


もう、40年以上も前の話ですが、タイで伝道していた森本憲夫先生が北米ホーリネス教団の招きで、伝道集会のご用の為にロサンゼルスに来られました。(森本先生は、58年もの間タイで伝道されていましたが、昨年8月23日にタイで主のもとに召されたそうです。)


その時、森本先生は、タイで身寄りのない子供たちを預かる孤児院伝道のお話をされたのです。それで、3日間でしたか、その伝道のために金銭的なサポートをしてほしいというお話でした。それで、ロスアンゼルスの教会の多くは、その時から毎月献金するようになりました。未だにそれを続けられている教会があるだろうかと思います。


集会が終わり、私がたまたま先生をパサデナに送ることになりました。私は、運転しながら、車の中で先生に訊きました「先生は、孤児院を営み、子供たちに食事と住むところを提供している(寺院で)わけですが、福音伝道についてのお話があまりなかったのが残念でした。孤児を救済しても救われなければ、それは単に社会福祉事業で終わるのではないでしょうか?」


質問というより、詰問でした。後ろに座っていた先生の顔は、見えませんでしたが、少し間をおいて(やさしい声で)答えられました「・・・生きていてくれなければ、福音は伝えられません。・・・」。


<クリスチャンは、此の世に生きている>


人はこの世に生きているのです。此の世の空気を吸い、此の世の食物を食べて生きているのです。クリスチャンだから、そんなの必要がないとはいえません。人は、此の世にどうしても係わらざるを得ないのです。否、積極的に係わらなければならないと思います。係わる責任があるのです。


聖書の戒めの中で何が一番重要な戒めかと訊かれて、イエスさまは、第一は神さまを愛すること。第二はあなたの隣人を愛することだと仰いました。それでは、“隣人”とは誰の事ですかと訊いた人に「あなたの助けを必要としている人です」と答えられました。良きサマリア人の話です。(ルカの福音書10章29~37節)


私たちクリスチャンは、此の世の営みに積極的に係わっていく“責任”があるとイエスさまは仰いました。神さま第一ですが、神さま第一であるが故に(それが主のみ心であるが故に)“隣人”をも第一にしなければならないのです。


<クリスチャンは、みな同じではない>


イエス・キリストを救い主と信じるクリスチャンが皆同じ考え方をするわけではありません。だから、いろいろな宗派があるわけで、同じでなければならないということではないのです。ですから、イエスさまは、お互いに裁きあわないようにと戒められました。


・・・続く・・・


文責:ロバート イー

クリスチャン、前副大統領マイク・ペンスの心意気に敬礼


<クリスチャンとはどういう者か>


私は、ここで政治の話をしようと思っていない。クリスチャンとはどういう者かという話をしようと思っています。前トランプ大統領の弾劾裁判がどうであったかということはどうでもいいのですが、あそこに登場した人物の中で、私の心に強くとまった人は、前副大統領マイク・ペンスです。


ここに NY Times とCNBC の記事を添付しましたが、マイク・ペンス氏は、大変な状況に遭遇しました、




あの日、2021年1月6日、マイク・ペンスは、各州の投票を数える日の議長として議事進行をしていました、アメリカ憲法に規定された手続きとして、各州の投票数を数えて、大統領に選ばれた人を議会が受理するという“儀式”です。


ところが、議長となる前副大統領のペンスに、トランプ前大統領は、アリゾナ州、ジョージア州、ペンシルベニア州などの票を数えないようにしろと指示したのでした。そうすればトランプが勝つことになります。なのに、ペンスは、規定通りに、数えていったのです。


そして、トランプの「ペンスは(正しいことをする?)勇気がないようだ。・・・戦え!」という言葉を合図に、議事堂前に集まっていたトランプ支持者たちは、議事堂に突入し、“ペンスの裏切り者”、“Hang Pence(ペンスの首をつるせ)”と叫んだのです。


<英語で Bite the bullet(銃弾を噛む)という言葉があります>


私が現役時代、仕事でいろんな言葉を学びました。勿論、悪い言葉も習いましたが、この“Bite the bullet”と言う言葉は忘れられない言葉の一つです。


ある時、私は、NY店の偉い人と口論になりました。そして、彼は、私の上司に私のことを訴え、上司は、私のオフィスに怒鳴り込んできたのです。今すぐ謝れと言われたのです。私は嫌だと言いました。私が正しいのになぜ謝らなければならないのかわからないと言いました。


私は、上司に事情を説明し、私の正しさを訴えました。


そうしたら、上司は、静かに言いました。「You know, in our life, sometimes, we need to bite the bullet.(いいかい、私たちの人生に於いては、時には、飛んでくる銃弾を噛まなければならないことがあるんだよ)」


“bite the bullet...”・・・私は、少し考えた末、「Ok... I will call him」と言って、彼が居る前で電話して、自分の態度がわるかったと謝りました。上司は、私の肩を軽くたたいて、私のオフィスを出て行きました。


<ペンスは、クリスチャンとしての信条に生きていた>


ペンスは、4年間、トランプに仕えてきました。トランプをどこまでも擁護してきました。でも、憲法に反することは出来ませんでした。それ以上に神さまの意思に反することは出来なかったのだと思います。


ペンスは、ニュースで“ペンスをつるせ!”と叫んでいるのを見て、どう思っただろうか?議員たちと地下にこもっていた時にトランプから心配する電話もなかったのです。


おそらく、報道関係者は、(そのことで)ペンスにさかんにコンタクトしていることでしょう。でも、ペンスは、未だに沈黙を守っています。おそらく、彼は、弾丸をかみしめているのでしょう。


こういう人とならどんな仕事でも一緒にしたいものだと思います。


<Bite the bullet の意味>



English Idiom: Bite the Bullet – Meaning and Pronunciation


ちなみに、今まで、私はこの言葉が“自分のところに飛んでくる銃弾を、口の中を突き抜ける前に自分の歯で食い止める”という意味だと思っていましたが、そうではなく、傷ついた兵士が麻酔なしで手術する時に、銃弾を噛みしめて、その痛みに耐えるというのが語源なのだそうです。


『4:4 わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。 4:5 だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。』(コリント人への手紙一4章4,5節)


文責:ロバート イー