主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

ヨギ・ベラ監督の名言「終わるまで終わらない」は永遠に生きる


Keep Trying. 努力し続けなさい
Stay humble.  いつも謙虚でいなさい
Trust your instincts. 自分のひらめきを信じなさい
Most importantly, act.  最も重要なことは、行動すること
When you come to a fork in the road, take it.  道の分岐点に来たら、進むことです(止まらない)
- Yogi Berra ヨギ・ベラ



<ヨギの最も有名な言葉、“It ain't over 'til it's over."(終わるまで終わらない)>


ベラ監督は、1973年、NY Metsの監督をしていました。メッツは、8月末時点では5位でリーグ優勝は不可能に見えた頃、今後の状況を訊かれたヨギは “It ain't over 'til it's over."(終わるまで終わらない)と答えたのです。そして、彼のチームは(みんなの予想に反して)リーグ優勝を遂げたのです。


多分、彼は「終わるまでわからない」という意味だったのかも知れませんが、チームが最悪の時に、そういう質問をされて頭にきたのかもしれません。・・・「終わるまで、終わらない」というのは  ”当たり前のこと”  です。当たり前のことをその通りに言っただけなのに、この言葉が後世に残る名言となりました。


その他にも彼の語録が沢山残されているのですが、彼の発想というか 彼特有の哲学が面白いと思うのです。それを「Yogiism (ヨギイズム: ヨギ主義)」というそうです。その完結で逆説的な表現のなかに人の人生での大切な示唆が込められているように思われるのです。


そういう彼にも、筋を通すことがありました。1985年、NYヤンキースのオーナー George Steinbrenner は、この年はチームを彼に任せると言いながら、16試合後に彼をやめさせました。さすがに多くのジャーナリストは、スタインブレナーの暴挙を批判しましたが、ベラは二度とヤンキースに戻ることはありませんでした。


<ベライズムの源泉はどこにあるのか>


ベラの語法は、逆説的だけじゃないのです。例えば、「野球の90%は mental(精神力)で、後の半分は、physical(肉体的能力)だ」と言いました。・・・もし、Mentalが90%なら、残りは10%なのに、あえて、後の半分(50%)は、Physical(肉体力)だと言っているのです。


彼が計算できないのではないのです。ここで強調されているのは精神力で、どんなに肉体的に優れていても精神力がなければ(野球選手として)成功しない。と同時に肉体が十分鍛えられていなければ(野球選手として)やっていけない。10%じゃダメだと言っているのです。


こういう表現ができるのは、並みの頭脳じゃないなと感心するのです。だから、名言として残されているのです。で、このような逆説的で完結な表現を生み出した、彼の思想は何かということですが・・・"努力する人には神さまは報いてくださる" ということではないかと思うのです。


彼は、イタリア系の移民の子どもです。彼の思想の根底にカトリズムがあるのではないかと思うのです。カトリック教会の「たとえ凡ゆる苦痛の中にあっても、最後の勝利を堅く信じる」ということです。


先日、8歳の孫娘が「I know I will die(自分が死ぬのを知っている)」と妻に言ったそうです。妻はそれをごまかしたり、変な励ましをしたりしませんでした。「終わるまで終わらない」けど「必ず(この世の)終わりはきます」


でも、神さまを信じる人たちは、少しも揺るぎません。この世が終わる時、新しいシーズンが始まるからです。そして、そのシーズンは永遠に終わらない(素晴らしい)New Beginning だと聖書は告げるのです。


『 21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。・・・21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。』(黙示録21章1、3~4節)


文責: ロバート イー

忘れられないクリスマスの思い出


<クリスマスの集い>


あれはオレンジ郡に住んでいた頃ですから35年以上も前のことです。その頃は、感謝祭が過ぎるとすぐに、デパートのショーウインドウには、Merry Christmas と書かれ、ラジオからは、クリスマス・ソングや讃美歌が流れてきました。


当時のオレンジ郡には、日本から来た駐在員がたくさん住んでいて、私たちの家では (教会の行事とは別に) クリスマスを祝う小さな集会をやり、近所をまわってクリスマスの歌を謳 (うた)ったのです。日本からきた人たちにクリスマスって何なのか、ということを知らせるという企画でした。


いつもはみんなで食事を持ち寄ったのですが、その年は、シンプルにフランスパンとクラムチャウダーにしようということになりました。


クラムチャウダーのスープは、レストラン用の、缶に入ったすでに出来ていて温めるだけのもの。パンは、近くのリトル・サイゴンにあるベトナムのパン屋で売っていた、一人分の小さなフランスパンということになりました。


フランスパンは、普通長いものです。このように短いひとり分の(コッペパンみたいなの)は、めずらしかったし、おいしかったのですが、少し値段が高かったのです。


が、今回は、手間をはぶき、食事にはできるだけ気をつかわないということに徹しました。


<クリスマス・キャロル>


この集会では、教会に行ったことがない人にもクリスマスの雰囲気をわかってもらいたいという狙いがありましたので、まず、クリスマスの歌の練習をしました。


「もろびとこぞりて」「荒れ野のはてに」「天(あめ)には栄え」「きよしこの夜(英語も)」それから、最後に “We wish you a Merry Christmas、We wish you a Merry Christmas、 We wish you a Merry Christmas and, a Happy New Year”という歌の練習をしました。


この頃のオレンジ郡はいつも寒くて、ぶるぶるでした。厚着をして襟巻して、蝋燭(ろうそく)と楽譜のコピーを手にもって出かけます。そして、電気が煌々(こうこう)とついていて沢山の人たちが集まっているような家々の近くで、総勢15名ぐらいで賛美をしました。


日本語での賛美ですが、メロディーを聞けば、クリスマス・ソングだとわかります。そうすると、玄関から、またはグラージドアーがガラガラと開いて、人々が出てきます。その中には、日本語の歌を聞いたことのない人たちもいたことでしょう。みんな聞きほれて(?)います。


そして、おなじみの「きよしこの夜」をコーラス(ソプラノ、アルト、ベースで)で歌いました。日本語と英語。英語になると出てきた人たちも一緒に歌う人もいます。そして、“We wish you a Merry Christmas、We wish you a Merry Christmas、 We wish you a Merry Christmas, and a Happy New Year”と歌って、さよならです。


家から出てきた人たちも喜んでくれたと思いますが、歌った私たちも不思議な喜びにみたされました。


<クリスマスの話と食事>


家に帰ってから、クリスマスに関する短いお話をしました。その日は、たしか、リンカーン(大統領)がまだ貧しい少年の頃の逸話をシェアーしました。


リンカーンが教会にいく途中、子豚が水たまりにはまってもがいているのを見て、その中に入って、子豚を助けたという話です。泥だらけになったリンカーンの姿を見た教会の人たちはきびしくとがめたのでした。


そして、神さまは、私たちを助けるために泥だらけになっただけでなく、その命を与えてくださったという話をしたように覚えています。


それから、食事になりました。身体が冷えていたので、温められたクラムチャウダーが身体の隅々に広がっていきました。


ところが問題が発生したのです。パンがたりないというのです。


今回は、パンが一人分だけですので、この集会に来る人たちの数を事前に確認していました。そして、来るという人数の数しかパンを買っていませんでした。(高いから😢)


足りなければ、自分たちが食べなければ良いだけですが、来た人たちにはかならず食べさせたいのです。計算したら4個ぐらいたりない。


キッチンで働いている人や私たちをいれたら5人以上いるから、大丈夫。自分たちが食べなければ。みんなにそう伝えて、パンがみんなに行き渡ったのを見て、袋から自分たちの分を出したのです。


そうしたら、なんと、残りの人たちの分が全部あった(出てきた)のです。そんなはずがないのです。買った数と袋から出てきた数が合わない。もしかして、あのベトナムのパン屋が気を利かして4つ余計にくれたのか?そんなことはあり得ません!


先日、そのことを思いだし、あの時 私に “パンが足りない” と耳打ちした人に、“ほら、あの時パンが増えていたね”と言ったら、“そんなこともあったわね” とそっけないのです。


でも、私は、忘れません、あの時のパンのことを。足りなくもなく余りもしなかった。ハラハラさせられたけど、あの時のパンは、特別なパンでした。


2:10 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。2:11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。2:12 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。2:13 するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、2:14 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。』(ルカによる福音書2章10~14節)


文責: ロバート イー

わたし達は、みんな人生の傷跡をもっています


Johnny Cash - Hurt
(Jonny Cash 「Hurt」(痛み))


I hurt myself today
今日私は怪我をしました


To see if I still feel
まだ(痛みを)感じるかと


I focus on the pain
痛みに注目しました


The only thing that's real
痛みだけが生きている証拠だから(意訳)
・・・


<2種類の傷跡があります>


私たちは、この世に生きている過程で、肉体的な又は精神的な傷跡(Scar)をこの身に心にもつようになるようです。


その傷跡は、ダメージを受けた後、(回復にしたがって)小さくなっていき、ほとんど見えなくなるか、完全に消えてしまう場合もあるでしょうが、隠しようもない醜い傷跡を残すこともあります。


私は、2010年の8月28日に心臓麻痺(心筋梗塞)を起こし、心臓の左心室に血液を送る環状動脈が100%詰まってしまったのです。定期的に血管を広げる薬を注入して、心臓が止まらないようにしているのですが、起こってから90分以内に血管をあけないと死ぬのだそうです。土曜日で専門医がなかなか見つからず103分かかりました。


ようやくその専門医が見つかって、サイレンを鳴らして救急車で運ばれ、カテーテルが挿入され、ステントが挿入されました。・・・すぐにお医者さんがのぞき込んできて、“どうですか痛みは?”と訊きました。でも、まだ、かすかに「痛み」(鈍痛)が残っています。


お医者さんは言いました “あなたの血管は100%詰まっていました。詰まっていたのを取り除き、ステントを入れたので、もう大丈夫です。You shouldn’t have any pain(もう、痛みはないはずです)”


翌朝、6時頃、病室の窓の外に朝日が昇ると同時に、今まで感じていたかすかな「鈍痛」がスーッと消えていったのです。“あっ、治った”。


だいぶ経ってから、私は、その話を私の心臓の主治医に話たところ、その先生は笑いながら、“それは、血が行かなかった心臓の筋肉が死んだのですよ”と教えてくれたのです。・・・死んだ心臓の筋肉はScar(傷跡)になる。心臓の一部は動かなくなるが、それが心臓の healing process(癒しの工程)なのだそうです。それ以来、私の心臓は血液をあまり供給できなくなってしまったのですが、・・・まだ、生かされています。


これは、心の傷の場合も同じではないかと思います。冷たい言い方かも知れませんが、その傷は小さくなっても消えないかもしれません。


<傷跡はあった方がかっこいい?>


昔、私たちが若かった頃、「傷だらけの人生・・・」とかいう歌がはやったような気がします。傷跡は、人生の勲章みたい。


でも、人によったら絶対に触れられたくない「傷」を持っている人もいるのです。実は、その「傷」がその人の人生を決めることにもなるのです。だから同じ傷を持つ者への同情心というのもあります。“癌友(とも)”なんかはそうです。


<イエスさまは、病人を癒しました>


新約聖書のメインテーマは、この世の苦しみ・悲しみの解決です。その主な原因である「病気」をイエスさまという“人間”が実際に癒したのです。めくら(差別用語じゃない)の目を開き、足なえを歩かせ、それだけじゃなく、死人をも生き返らせたのです。・・・そして、本人は十字架にかかって死んだ、と記録されているのです。・・・そして、3日目によみがえり、天に昇られました。


(紀元前700年頃に書かれた)旧約聖書のイザヤ書の預言に、「53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。 53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」という言葉があります。


御子イエスのその傷によって、わたしの傷跡(痛み)が消えた」と信じることができる人は幸いです。


I hurt myself today
今日私は怪我をしました


To see if I still feel
まだ(痛みを)感じるかと


I focus on the pain
痛みに注目しました


No, I don’t feel the pain anymore
痛みはもうありません(替え歌)


文責: ロバート イー