主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

神さまって本当に居るのですか?

 --「わたしは有って有るもの」出エジプト記 3:14  --


<信仰から離れる人、信仰を捨てる人がいます>


最近、身近な人が信仰を捨てたということを聞いて、悲嘆にくれています。“神さまを信じなさい。そこにすべての問題の解決があります”というメッセージをかかげても、人はなかなか信じません。


自分は、たまたま神さまの存在を信じ、その信仰を確かなものとしてきましたが、、いろんな個人的な事情を経て、その信仰をすてるという話をきくと、悲しくなります。


一度信仰に入って、それを捨てるという人はもう許されないという神学があるそうですが、自分はそう思いません。


いずれにしても、そういうことになった原因は、いわゆる「神の沈黙」ということだろうと思います。


神さまが、自分が必要とした時に応えてくれなかったとか、自分が、気休めでまたは藁をもつかむような思いで“架空の”神さまを求めていたのだと思われたのかもしれません。


<聖書の神さまは生きています>


自分は神さまに出会った、いや、信仰を与えられた方々は、みなさん、それぞれの人生の過程で “神様と出会った”(ブルトマン)のです。


それは、神さまが生きて存在しているからなのです。なのに、その神さまから離れ、背を向けてしまう人たちがいるのです。


その理由は、わかりません。本人にもわからないかもしれません。勿論、神さまは悲しむでしょうし、本人も(間違いなく)さびしい、悲しい思いしていることでしょう。


ある人は、“それは、サタンの仕業なんだ”と切り捨ててしまいます。・・・ そうかもしれませんが、わたしは、しつこく悩みます。そして、無力感に陥ります。


<自分に失望し、神に失望する時>


カソリック教会や聖公会では、「キリエ・エレイソン」(主よ、憐れんでください)と唱和するのですが、これは、私たち信仰者の最終的な祈りだと思います。


特に、疲れ切って、生きることがつらくなる時、、そういう時は (わたしは)「主よ、わたしを憐れんでください」と見えない神さまに呼ばわります。そして、耳を澄ますのです。


『願わくは主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
 願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、あなたを恵まれるように。
 願わくは主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように』(民数記6:24~26)


文責: ロバート イー

喜びとは、最もシンプルな形の感謝である(Joy is the simplest form of gratitude )

(カール・バルト: Psephizoというところがこの写真のコピーライトをもっているらしいのですが、掲載許可がとれていません。)


<神学者、カール・バルト>


この「喜びとは、最もシンプルな感謝の形である。」という言葉は、神学者、カール・バルトが残したものだそうです。


カール・バルト(ドイツ語: Karl Barth, 1886年5月10日 - 1968年12月10日)は、20世紀のキリスト教神学に大きな影響を与えたスイスの神学者です。


彼の書いたものは沢山あり、キリスト教界で彼の名前を知らない人はいないと言っても過言ではないでしょう。


ただ、私はドイツ語が苦手で、どういう訳かドイツ語から日本語に訳されたものは、どれもみな私には難解なのです。それでも、彼の教会教義学やロマ書の講解など彼の有名な本は借りて読みました。


面白いことに、何度も読むと彼が伝えようとしていることはそんなに難しいことではないということがわかってきます。彼の本の解説の方がもっと難しい。


この"喜び"についての言葉は、わかりやすいですね。誰にでもわかります。喜びが何であるのか、それは感謝からくるのだというのです。



〈この「Leap of Faith」という映画は"喜び"について語っています〉


‭‭「Leap of Faith」とは、信仰をもって飛び跳ねるという意味ですが、何んだ、また信仰の話かと思われるでしょうか? いや、詐欺師の話です。インチキの"癒しの集会"で貧しい人たちからお金をまきあげる集団の中心人物、偽牧師の話です。‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬


その集会のためのテントなどを積んでいるトラックが、長いあいだ干ばつで困っているカンザスシティの街にさしかかった時に故障してしまいます。部品がくるのに数日かかるというので、そこで「癒しの集会」をやろうということになりました。


「癒しの集会」ですから、いろいろな身体に障害をもっている人たちが集まります。それで、あらかじめそういう人たちから情報を得ておいて、あたかも天からみ告げがあったかのように、その障害をいい当てるとみんな信じてしまうのです。・・・ でも、みんなが心配している干ばつについては、いつ雨がふるのかと訊かれても返事にこまって、話題をそらすしかありません。


そうこうしているうちに、本当に「奇跡」が起こってしまうのです。集会場に立てられた木彫りのイエス像の目が開き、歩けなかった少年が歩けるようになります。それで、彼は、もうインチキの癒しのまねごとをすることができなくなってしまいます。


癒された少年は、彼について行きたい、連れていってくれというのですが、彼は君が癒されたのは私の所為ではない。自分は、みんなに希望をあたえるショーをしていただけなんだと話すのです。でも、少年は、言うことをききません。彼は、それじゃ明日の朝会おうと約束して、先にヒッチハイクして逃げるのです。


トラックの運転手に“何か問題でも抱えているのかい? (それで、逃げてきたのか) ”と訊かれて、彼は笑いながら、“問題?” “とんでもない、自分は、生まれてはじめてすべての問題から解放されたんだ”と答えるのです。と、その時、大粒の水滴がトラックのガラスの上に落ちてきます。雨が、それも大雨が降ってきたのです。


トラックの中で彼は大喜びし、町の人たちは喜びおどるのです。雨がどんどん降ってくるのを見ながら、彼は心から(信じてはいない)神さまに感謝の叫び声をあげるというところで終わります。


「"喜び"とは、“最もシンプルな感謝の形”だ」ということがわかる映画でした。1992年(32年前)の映画です。


<蛇足>


聖書に有名な聖句で『いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。』 (1テサロニケ ‭5章 16‭~18‬ ‭節)‬‬‬‬‬という言葉があります。‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬


これは命令形で書かれていて、喜べなくても喜べ、祈れない状態でも祈れ、感謝できない時でも感謝しなさいと語られるのですが、バルトの表現をかりると、感謝から喜びになり、その喜びは、神さまをたたえる祈りとなり、その祈りは新たな感謝となってかえってくるのだと解釈することができるのです。


感謝―>喜びー>祈りー>感謝・・・です。 いずれにしても、無理することはないと思わされています。


文責: ロバート イー

“初めに神は”という言葉が、聖書のすべてをもの語るように思います


<創世記一章一節>


文語訳 「元初(はじめ)に神(かみ)天地を創造(つくり)たまへり」


口語訳 「はじめに神は天と地とを創造された。」


欽定訳 「In the beginning God created the heaven and the earth」


<神さまって本当に居るの?>


神さまって本当に居るのですか?もし居るのでしたら、人間は神を認識することができるのでしょうか?私はそのことをずーっと考えていたようです。


私は、3代目のクリスチャンですが、そうなる前は、クリスチャンという人種が大嫌いでした。彼らの会話は幼稚で自己満足的、偽善的で“愛”のかけらもないのに、本人は愛の人だと思っている。・・・牧師も観念的な見方しかできない人ばかり、毎週、聖書に書かれていることに適当なことを付け加えて話しているだけのように見えます。(忙しいのはわかりますが)


私は、“これは身体にいい”というのが大嫌いです。癌になるとそういうものが送られてきます。そのほとんどがあまり根拠のないものなのに、人は藁をもつかむ思いで、そういうものを求めます。効かなくても、効くと思えば効くんだよといいます。私にはそういう信仰がないので、効きません。


そういう私が、突然、神さまの愛にふれたのです。51年前の夏、そんな自分が神さまの愛を感じたのです。土屋一臣先生が十字架の話をされ、安藤さん(今は牧師)が「われはおもふ」というリバイバル聖歌を歌いました。


“われはおもう わがため十字架にかかりて 罪のこの身あがないたもう 主の愛の深さを~・・・われさえも愛したもう・・・われさえも愛したもう・・・救い主の愛の深さ~・・・われさえも愛したもう”


私は、自分が罪びとだと思ったことがありませんでしたし、今でも、教会の教理的な罪意識はありません。でも、神さまから遠くはなれていたという意味での罪意識は十分にあります。


安藤さんの賛美を聴きながら、私は “神さまって本当にいるのだろうか?” “神さまは本当にアメリカにきて苦労してきた自分を助けてくれていたのだろうか?” “・・・もしかして、(認識はできないのだけど)本当にいるのかも知れない・・・” と、そう思った時、心の底から“熱いもの” がグワーッとこみ上げてきたのです。


その日、家に帰って(ベットの傍でひざまずき)「神さま、あなたが本当に居るのなら、私に教えてください」と祈りました。これが、“私の救い” の原点です。この日から、この居るか居ないか定かでない “存在” に私の全生涯をかけたのです。


<聖書は、神さまからのラブレター>


聖書は、神さまからのラブレターだと言われます。本当にそうだと思うのです。私は、神さまに祈ってから聖書を読みはじめました。そして、この50年間 “神さまの愛“ を確かめてきたのです。


旧約聖書の冒頭の「はじめに神は・・・」というのは天地創造の話です。神は無から有を創られました。私の祖先を創り、私を創られた神さまです。そして、神ご自身は、初めから存在していたのだというのです。


神さまは、モーセにエジプトで奴隷になっているユダヤ民族(イスラエル民族)を救い出せと命じます。モーセは、自分にはそんな大仕事はできませんと辞退するのですが、神さまは “私がついているから大丈夫だ” と言います。・・・(誰でもそんなことは不可能だと思うことでしょう。相手は、大国エジプトです。)


モーセは、“私は何者でしょう。もし、彼らが「神さま、神さまっていうけど、それはどんな神さまなんだ? どんな名前なのか」と訊いたら、なんと答えたらいいのでしょうか?” と訊くと、神さまは “わたしは有って有るもの”、“私の名前は「有って有るもの」(yhwh)と答えます。(これが神聖な4文字と言われるものです。)


この「有って有るお方」が天地を造られ、私たちを造られ、すべてを治められると聖書に書かれているのです。・・・このお方が最終的な権威をもっているのです。・・・このお方が私たちのために “永遠の住まい” を用意していてくださっているというのです。・・・これが神さまを信じる者たちの希望です。そして、この希望は、「神の愛」によって確信することが出来るというのです。・・・


『この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』(ローマの信徒への手紙5章5節)


2024年、信仰51年目を迎え、自分の原点にたちかえりたいと思わされています。・・・皆さま 良いお年をお迎えください。


文責: ロバート イー