主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

神さまは、私の救い、とこしえの希望です

(イスラエルの岩のドーム:同じ天地創造の神さまを信じる、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教が混在しています。)


<独善的でない宗教はない>


「キリスト教とイスラム教は、排他的で独善的である。その点、仏教は、包容力がある」と言った人がいました。(元民主党小沢幹事長)・・・別に排他的になる必要はないかもしれませんが、ひとは、自分が信じているのが絶対だと思っているのですから、宗教というものは、結論的に、どんな宗教でも独善的になります。


アラブ(イスラム教)とイスラエル(ユダヤ教)は同じ神さまに仕えているのに、殺しあっています。これは、宗教的な争いというより、政治的争いですが。


<違う宗教の友を受け入れられるのだろうか?>


宗教に埋没しているひとは、それ以外の心情・信仰には賛同することはできません。私の数少ない、中学時代からの友人(親友だった)M君には何十年も会っていませんでしたが、昔の電話番号がまだ生きていて、電話をしたら、すぐにわかってくれて、会うことになりました。パンデミックが始まる前の年でした。


彼は、野球部のエースでした。ふざけてバッターボックスに入った時がありましたが、彼の投げるボールがあまりにも速いので、怖くて、バットを合わせることができませんでした。もし、彼がそのまま大学に進んでいたら、東京六大学のエースになっていたかもしれません。プロの選手になっていたかも。


たしか高校2年の時です、彼の父親が亡くなり、多分それがきっかけでしょうか、学校がミッションスクールなのに、創価学会に入りました。私は、その頃にはもう教会に行かなくなっていましたが、彼と議論をして、つかみ合いの喧嘩になりそうになったこともありました。本気でやったら、私に勝ち目はありませんでしたが。


久しぶりに会った彼には、昔の面影はなく(私もそうだったことでしょうが)、糖尿病で奥さんから腎臓をもらい靴もはけない状態で、スリッパをはいていました。彼は、創価学会の話、私は教会での話です。彼にとって「キリスト教徒は、きれい事の偽善者の集まり」であり、私にとって「創価学会の人たちは、この世の幸に執着した集団」ですが、もう、互いにつかみ合いをする元気もありません。


私たちは、ほとんど無言で、別れました。・・・とぼとぼと歩きながら、彼の人生を主が祝してくださるようにと祈りながら、歩いたのを思いだします。もう、彼と会うこともないだろうと思いながら・・・。


<違う宗教でも友達になれる場合があります>


彼は、厳格なムスリムでした。彼は、IBMで働いた優秀なエンジニアで、同じ会社の技術部の部長として働いており、私は生産管理部の部長でした。いつからともなくお昼をともにしました。彼には食べられないものがあるので、食べられるものを食べ、断食の時も私に付き合ってくれました。勿論、何も食べません。宗教の話をし、政治の話もしましたが、つかみあいになることはありませんでした。


イスラム教もキリスト教も同じ神さまを信じています。その為でしょうか、全然、違和感がないのです。お互いに違いを認め、RESPECT(尊重)することができたのです。私たちは、お互いに自分の信仰に忠実であろうとしていました。それなのに、私たちは、相手の信仰を認めたら、自分の信仰が成り立たないと思うことがなかったのです。


それは、お互いの人格を認めあったからというよりも、おたがいに「神さまは愛である」という不動の認識をもっていたからだと思います。・・・それに、ふたりに共通していたことは、自分が信じていることが完璧だとは考えていなかったことです。ふたりとも完璧になろうと努力をしていただけです。


ムスリムは、果てしなく厳格ですが、神さまに従い平和を愛する人たちです。ジハード(聖戦)という言葉を誤解し、憎しみに生きる人たちは、もはやムスリムではないのです。一方、愛を失った「律法」に固執し、ヤコブのように狡猾にふるまう人たちも、もはやイスラエル(神の民)とはみなされないのです。


<私たちの知るところは一部です>


コリントの手紙一13章12節


・・・今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。・・・


ロサンゼルス・ホーリネス教会の高木先生の話を聞きながら、・・・“そうなんだ、私たちは、そういう“ぼんやり”としか見えない神さまを信頼して生きている。・・・この神さまこそ本物なのだ。この神さまが 自分” を支えていてくれていると “ぼんやり" と”実感しているのです。・・・なんという幸いなことだろうか。それこそ、神さまの御業なのではないのだろうか。


だから、(私は)たとえ、ぼんやりとしか見えなくとも、、そこに映し出された、実存する神さまを追い求めていきたいと思うのです。


文責: ロバート イー

もし大谷選手がクリスチャンになったら?!


<クリスチャンはみんなそう思っていることでしょう>


もし、大谷選手がご夫人と教会に行かれたら、報道陣が待ち構えていて、その教会の人たちは、自分たちは関係ないみたいなことを言いながら、心では神さまのみ名をほめたたえるに違いありません。


大谷選手がクリスチャンになったなら、多くの人がキリスト教に興味を持ち、救われる人が現れるかもしれません。でも、そういう人たちは、長続きするでしょうか?


そんなことはわかりませんね。昔、日本からきた学生たちに“日本食が食べられますよ”と言って、眠りたい日曜日の朝に若者たちを教会に連れていきました。日本食など食べるところがなかった頃の話です。そして、その多くの若者が救われ、その中から、牧師になった人たちが起こされたのです。


<本当に大谷選手がクリスチャンになれるのでしょうか?>


彼は、愛すべき人格者です。敵陣の選手からも愛されています。それが試合中の場面に現れています。敵に愛される人がクリスチャンになる?そんな必要ないよな~と思うでしょうか。だって愛を実行している人なんです。


私もそう思います。イエスさまは愛を実行しなさいと語りました。見せかけの善行はダメですとおっしゃいました。大谷選手はそれを実行しているのです。


人を愛し愛される、見返りを期待しないで善いことをする、素晴らしいです。でも、“救われる”ということは、神さまを受け入れることですし、神さまに受け入れられることです。


もし、大谷選手が彼の望んでいることがすべてかなえられて、それ以上に何もいらないという状態を維持していけたら、彼には、“救い”は必要がないのです。


彼は、結婚しました。一緒に(ずーと)居て、楽しい人だったといいます。良い時もつらい時も傍に居てほしいと思われる人だったのでしょう。手術をして今までのようにやれなくても傍にいてくれる人だと思われたのでしょう。


<人の心のなかには空洞がある>


「人の心には“穴”があって、その穴を埋めてくれるお方は、神さまだけなんだ」と言った人が居ました。どんなに素晴らしい人生をおくっている人でも、その心のなかの空洞を埋めることができない。その空洞は、神さまか住まわれるところだ、というのです。


聖書に『 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。』(マタイ5章3節)という言葉があります。それは、私たちのこころの空洞のことだと思います。


あの優秀な大谷選手だって、否、優秀であるからこそ、この「こころの奥底の空洞」を感じているだろうと思います。奥さんとふたりで、この世のものでない“幸”をつかんでいってほしいと思います。それが日本の救いにつながるかどうかなんかに関係なくにです。


私は、かつての平成天皇、美智子皇后は、隠れキリシタンだと思っています。救いは個人的なものです。


私たちクリスチャンは、大谷選手のように人を愛し愛されている多くの日本の方々のために、その救いのために祈っています。”天の御国はその人たちのものだから”です。


文責: ロバート イー

わたしたちは、祈ります。誰に教えられなくても祈ります

  (ロサンゼルス・ホーリネス教会のステンドグラス)


<祈るということはどういうことでしょうか>


信仰とは関係なく、私たちは “がんばってね、祈っています” などと言います。英語でいうと“Good Luck!”(幸運を願う)みたいなものです。あなたが望むようになるように、願っています、と励ましているのです。


祈るということ、祈願するというのには、祈る対象があります。・・・ 台湾には仕事でよく行きましたが、観光をしたことはめったにありませんでした。そういう私に、ある取引会社がわざわざ台北での半日の観光を計画してくれたのです。


ホテルに古い車で迎えに来てくれた人は、少し日本語が話せる人でしたが、車であちらこちらの寺院をまわるのでした。私がクリスチャンであることを知ってか知らずか(有名な?)寺院を回りました。そこでは、多くの人たちが長いお線香を手にして、それを上下に振りながら、お辞儀をくりかえしていました。


人々は、自分の願いを見えない大いなる(力ある)存在に託しているのです。


私の家は、クリスチャン家庭でしたので、教会につれていかれました。そして皆さんの立派な(?)お祈りを聞きながら育ちました。学校は聖公会でしたので、祈祷書というものがあって、祈るというより唱えます。


<祈りはかっこよく祈らなくてもいいのです>


私は、かっこよく祈れません。それでも、多くの人に “どうしたら、皆さんのように立派なお祈りをすることができるのでしょうか?” “皆さんは練習されるのでしょうか?”と訊かれました。


私が神さまを求めるようになり、教会の祈祷会に出席するようになって、しばらくした時、司会の方が “今晩の祈祷会のために Yi兄弟に開会のお祈りをしていただきます。”・・・ “その前に賛美をいたしましょう。聖歌何番を賛美しましょう・・”と言われたのです。


・・・私は、まだ声をだしてお祈りすることに慣れていませんでした。神さまに自分が思っていることをぼそぼそとお話しする状態でしたのに、祈祷会の開会のお祈り、みなさんの代表のようなお祈りなんかできません。


みなさんが賛美をしている間、どうしよう・・・“神さま、助けてください!”と叫んでいたのです。そして、みなさんが賛美をしている間、みなさんがしているお祈りを思いだしながら、開会のお祈りをしたのです。冷や汗ものでした。・・・ このようにして、神さまに祈るということを覚えていったのです。特別に台本があるわけではないのです。


聖書に、神さまはすべてご存じだと書かれています。人に聞かせるような祈りをするなと書かれています。そして、このように祈りなさいとイエスさまは「主の祈り」を教えてくださいました。 ・・・ 神さまはすべてをご存じなのに、“求めなさい”とも書かれています。(マタイ7:7~11)


神さまは、祈ったから私たちの願いをかなえてくださるのではないというのです。神さまは私たちが祈らなかった時でも私たちの願いをかなえてくださっていたのだ、ということもわかってきます。


祈りに形などないのです。かっこいいお祈りは人に聴かせる祈り、無言の祈りこそ本当の祈りです。(ただ、無言だと自分がどういうことを祈ったのかわからなくなります。)


どのようにして祈るのかわからない人には、まず、”神さま”とお祈りするお方にに呼びかけること、最後に”イエスさまのみ名によってお祈りします”ということだけお伝えしています。


それは、イエスさまが、ご自分の名前によって祈りなさいとおっしゃったからです。


<お祈りの基本は、神さまに話すことです>


神さまに祈るということは、神さまを身近に感じることです。・・・


♫ お母さん、お母さん、お母さんってばお母さん。何にもご用はないけれどなんだか呼びたいお母さん。お母さん、お母さん、お母さんってばお母さん。何遍読んでもうれしいなぁ、お返事なくてもうれしいなぁ ♪・・・という歌があります。


私は、時々(心の中で)“あぁ、主よ・・・”と呼びます。何も用事がないのに、否、有りすぎるのかも・・・返事がなくても呼びます。・・・主はいつも私たちを見守ってくださるお方なのですから。


<「主の祈り」:主イエスが教えてくださった祈りです>


「 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。  御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。  私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。  私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。  私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕」(新改訳3版 マタイの福音書6章9~13節)


文責: ロバート イー