主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

「自由」を大切にしてほしい。「自由」は神さまからいただいたもっとも貴重なものです。

<テレサ・テンの歌、「悲しい自由」>


コンピュータがいっぱいになり、データを整理していたら、なつかしいテレサ・テンの歌「悲しい自由」が出てきました。この歌は、祖国のゆくえを憂い嘆く歌でした。たのしい歌番組のはずなのに、テレサ・テンは、その歌を歌う前に、自分の胸の内を語りました。


添付のビデオは、画像が悪く、音質も悪いので、テレサ・テンの話を書きとりました。彼女は中国で起こった天安門事件について話したのです。



悲しい自由(悲傷的自由) 1989年鄧麗君,請看獨白


“私は、Chinese です。世界のどこにいても、どこで生活しても、私は Chinese です。だから、今年の中国での出来事すべてに、私は心を痛めています。中国の未来がどこにあるのか、とても心配しています。・・・私は自由で居たい。すべての人たちも自由であるべきだと思っています。それが脅(おびや)かされているのがとても悲しいです。・・でも、この悲しくてつらい気持ちがいつか晴れる、だれもいつかわかりあえる。その日が来ることを信じて、私は歌っていきます。・・・それでは、最後の新曲「悲しい自由」を聞いてください。”


天安門事件が起こったのは1989年6月4日でした。中国に“自由”を求める人たち(若者たちからはじまり老年の者まで)多く人たちが天安門広場に集まり、“中国に自由を”と叫びました。私は、その時、サンタクララでシステム・エンジニアとして働いていたのですが、人々は、紙でつくられた「自由の女神」の人形を担ぎ、興奮が高まっていたその時、数台のトラックから降りてきた中国軍の兵隊が広場にいた群衆に向けて発砲し、多くの命が失われたのです。・・・中国の国民は、その時に、多くの“命”を失いましたが、それ以上に“自由”を得る希望も失ったのです。


その日は、中国の国民にとって、とても悲しい日でした。


<日本にも暗い、悲しい時代がありました >


日本でも大戦中、軍の支配下で自由が失われた時がありました。私の大学時代の先生方は戦争に駆り出された方々でした。前にも書きましたが、南方から引き上げる時に動けなくなった部下に、少しの米粒を握らせて手榴弾を渡さなければならなかったと聞きました。


土砂降りの雨のなかを行進する兵士たちは手榴弾が破裂する音を聞いたのです。


当時の先生方は、あの映画「青い山脈」の自由になった喜びを唄うより、どうしようもなかったあのときの悲しみを抱いていたのです。・・・”君たちは、決して、こんなことを許してはならない“と話されたのです。・・・戦争も、権力者の圧政も許してはならないと。・・・


でも、群衆は、容易に洗脳されるのです。日本人には、“日本のために・・・”というスローガンがいつも効くです。“日本人なんだから・・・”、“日本人なんでしょう・・・”


<“自由”は、人の“自由意志”は、神さまが与えてくださった恵みです>


神さまがどのように人を造られたかということが聖書の創世記1~3章に書かれています。


神さまは、世界を創り、それを治める人を造られてから「それは、はなはだよかった」と仰いました。リビングバイブルでは「非の打ちどころがなかった」と訳されています。


完璧な世界とは、問題がないという意味ではありませんでした。そして、2,3章で、人は食べてはいけないという「善悪を知る実」を食べて死ぬものとなります。


神は、人に「善悪を知る実」を食べるか食べないかの選択肢を与えています。それが“自由”ということです。神さまが人を造った時の必須条件は「自由意志」でした。神さまは、人と自由な関係を持ちたいと思っていたのです。


神さまは完璧なロボットを造られませんでした。完璧に自由に愛し憎み殺しあう人を造られたのです。・・・なぜなら、“愛”の必須条件が自由だからです。自由のない愛は、愛ではないのです。神さまは、人と愛の関係を持ちたいと思っていたようです。


はい、人は自由を乱用し、社会に害を加えるようなこともします。はい、自殺をする方たちもいます。悲しいけど、それも自由なのです。あなたの人生はあなたが決めるのです。だから、そういう自由を阻止する社会は、神さまが承認されないと思います。


中国だけではありません。世界のあちらこちらに圧政があり、人々は苦しんでいます。だから、神さまの介入を切に祈っています。神さまが出てくれば人間の自由は失われます。それでも、祈らざるをえないのです。


あれは、確か高畠通敏先生でしたか、(政治原論のクラスで)“奴隷も逃げて殺される自由がある”と言われたのを思いだします。


使徒パウロもコリントの教会の信徒に宛てて『わたしには、すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。わたしには、すべてのことが許されている。・・わたしは何事にも支配されはしない。』と書いているのです。(コリントの信徒への手紙一6章12節)


私たちは自由です。神さまは私たちに自由を与えられました。私たちは何も持たないで生まれると言われますが、自由と愛だけは持って生まれているのです。


文責: ロバート イー

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