主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

もしかして、死ぬって楽しいことなのかもしれない

主と私

(ALSのルーゲリックがさよならした日、仲たがいをしていたベーブルースと仲直りしたそうです。)


<たとえ死の誘惑にさそわれても、自殺はやめましょう、悲しくなります。>

 

若者の自死。日本で若者たちの自殺を防ぐために頑張っている若い牧師が北海道の札幌にいます。自分も若い時、生きるのがいやになったことがありました。誰にでもあることだと思います。でも、そういう時に、高いビルから飛びおりるのは、(悪いけど)勇気でなくて臆病のなせる業だと思うのです。

 

一方、充実した人生をおくり年老いて主のもとに召される方々のメモリアル・サービス(葬式)に出席すると、悲しいけれども、うれしくなります。自分もこのようにして、神さまに召されたいと思います。通俗的ですが、そういう方の人生があって、その方と関わってきた方々の人生がはぐくまれていくのです。

 

<日本で死ぬ思いをしました>

 

3月23日、私はLAHC教会での礼拝の御用を終えて、すぐに日本に発ちました。桜を見に行こうというのではなく、ALSで死の床にいる友人に会いに行ったのです。何か彼がすぐにでも召されるのではないかという思いで、焦っていました。

 

LAXから日本に出発する時、カートにスーツケースを3つ載せたとたん、グワーツと心臓が締め付けられるような、あの心臓麻痺特有の痛みを覚えたのです。私はその場に立ちつくし、このまま倒れて救急病院に行くようになるのかと思ったのです。でも、ニトログリセリンを口に含み静かにしていたら、痛みが和らいできたのです。「あっ、これは心臓麻痺(心筋梗塞)ではない。」もし、心筋梗塞なら、痛みはどんどん増してくるのです。

 

その友人に、私はいつも「同じ電車で天国に行くか、私の方が一台早いのに乗れるかもしれない」と言っていましたが、それが現実になりそうだったのでした。


私は、何がなんでもその友人に会わなければと思い、計画通り日本に行き、彼以外の人には事前に約束している人以外には会わないことにしましたが、それでも3度苦しい心臓の痛みで立ちつくしたのです。


<血管を広げるステントを2つ入れた>

 

ロスアンゼルスに帰り、さっそく心臓のバイパスの先生に会うつもりでしたが、最近のAngiogram (血管造影検査) がなかったので、血管造影検査をしましたら、狭いところが2箇所みつかり、ステントを2つ入れてくれました。


これで、私の心臓にはステントが合計4本挿入されたことになります。そのおかげで、私の心臓はすっかり軽くなりました。(日本では考えられないでしょうが、私はその日に退院したのです。)

  

北カリフォルニアにいた頃は、この血管造影検査を何度もしています。看護婦さんが「Here goes happy juice!」(ハッピーなジュースですよ!)といって麻酔薬を注入しますと、スーっと何もわからなくなり、そして、リカバリールーム(回復室)で目をさますのです。こんな風に天国で目を覚ましたら、うれしいなといつも思わされていました。

 

<私たちには、自分の人生のゴールがある>


私たちは皆自分のゴールに向かって走っているのだと聖書に書かれています。

 

日本に会いに行った友人の病名はALS。この病気は、次第にからだが動かなくなる病気です。まだ、治療法のない過酷な病気です。彼はもう右足の親指しか動かせなくなっているのです。でも、それで(その親指で)今 日記を書いているのです。



右足の親指で書かれた彼の文章が読めますか?

私は朝昼晩、いつでもお祈りしています。神さまに、彼と彼の家族を祝福し、助けてくれるように祈っています。


(昨日のテキストです。)


右足の親指で文字を書くって生易しいことではありません。私はそこに彼の気迫を感じます。いつそれが出来なくなるかわかりませんが、彼は、"今"を生きているのです。・・・ いや、私たちも皆、“今”を生きているのです。


<来世を信じ期待している者は幸せです>

 

私たち、クリスチャンは、神さまを信じ、救いを信じ、天国を信じています。死を恐れません。いつでもいいのです。自分なりに、悔いのない人生を生き抜くのです。両手をあげてゴールのテープを切るのです。


聖書の言葉:


 『またわたしは、天からの声がこう言うのを聞いた、「書きしるせ、『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』」。御霊も言う、「しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく」。』


ヨハネの黙示録 14:13 口語訳です。


 文責:  ロバート イー

どうせ死ぬのに、人はなぜ生き続けるのか?

主と私

(グリコのこのゴールに入るデザインは、日本の戦後の飛躍を表すシンボルだと思います。)


<どうせ死ぬのに>


永六輔さんがラジオで子供番組をしていた時、ある子が「どうせ死ぬのに、どうして人は生き続けているのですか?」と質問されて、返事に困ったと書いていました。


"本当に、私たちはどうして生き続けているのでしょうか?"


旧約聖書の『伝道の書』に次のような記述があります。


『天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 

生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、 泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。
働く者はその労することにより、なんの益を得るか。 わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。


 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。 (「伝道の書 3:1-11 口語訳)


人は、自分がなぜこの世に生まれ、生き続けているのか分からずに、それぞれの人生を生きて死んで行くのです。


<神さまが備えられた私の人生>


クリスチャンは、神さまを知り、この人生は 神さまが与えてくれたものという認識をもって生きています。


ですから、幸福も苦難も全て神さまが私に与えられたものという信仰をもって生きているのです。


私は、心臓発作 (心筋梗塞)で死にそうになった時も、肺癌が見つかった時も、自分の人生の終わりを意識したのでしたが、まだ生き続けています。


この世でのやり残しがあるようで、まだ生き続けています。


<イエスさまが泣かれた>


新訳聖書、ヨハネの福音書11章の「ラザロの復活」の記事の中に"イエスが涙を流された。"という箇所があります。


イエスさまは、泣かれた後 (葬られて4日もたっている) ラザロをよみがえさせるのですが、イエスさまは、泣いたのです。


私たちは、自分の愛する人の死に目にあえば、悲しみ嘆きますが、それはその人が居なくなるからですね。


でも、もし、その人と天の御国で再会出来ると確信していたら、それほど悲しいことではないのです。


<この人生を完走する>


ピリピ人への手紙 3章 13〜14節


『 兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、 キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。』


聖書では、私たちの人生を"徒競走"にたとえられています。私たちは、ゴールに向かって、走っているのです。


私のようにヨタヨタと歩いている者もいれば、颯爽と風を切って走っている者もいます。


そう、みんなで励ましあって"ゴール"に向かつて生き続けましょう。それを神さまは喜んでくださるのですから。


目標は、完走です。


文責: ロバート イー

来世はあるのか、死んだら「無」になるのか?

主と私

("無"と書かれた墓石をさがしていたら、"愛"と書かれた墓石の写真があったので、無断で写真を掲載させて頂きました。)


<S氏からのリスポンス>


私のブログを読んでくれている方々のコメントはうれしいものです。たとえそのコメントが私の意に反するものであったとしてもです。


私の中学時代の先輩(コーチ)から『お話、しっかり読ませて頂きました。私は死ぬまで生きて、“無”になります。先祖から仏教徒なので。』というコメントをいただきました。


私も信仰を得るまでは、“不可知論者”で、死後の世界など語るも聞くも時間の無駄だと思っていました。だから、無から生まれて、無に帰るという考えは好きです。勿論、論理的には、無から有になるとか有から無になるというのは科学的な思考ではありません。


私たちは、親のDNAを受け継いでいるので、無から有ではありません。そして、そのDNAをさかのぼれば、アダムとイブにまでさかのぼれることになります。


<来世はあるのか?>


今生きている“私たち”は、そのうち死ぬわけで、もし“無になれれば”すっきりするのですが、そういう訳に行かないみたいです。


コリント人への第一の手紙15章。


『15:3 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、 15:4 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、15:5 ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。 15:6 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。 15:7 そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、15:8そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。』


『15:12 さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。 15:13 もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。15:14 もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。 15:15 すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。』


『15:22 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである』


このように、聖書によると、私たちは無に帰するわけにはいかないようです。

 

<来世が私たち信仰者の“希望”>


『21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。 21:2 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。 21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、 21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。』 


私は、S氏と天の御国で再会します。S氏だけでなく多くの人びとと手を取り合って喜び祝うのです。それは、私たちの信仰が現実になる時なのです。


文責: ロバート イー