主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

全能なる主よ、神よ癒してください


<シアトルにいる弟から祈りの漫画が送られてきました>


朝、目をさまし、電話をオンにしたら、通知音がして、テキストを開いたら、ピーナッツの祈りの漫画が飛び込んできました。精神的に参っていた弟からなので、うれしく思いました。


この漫画の言葉が私の心を打ちました・・・『神さま、癒してください。・・・私の記憶を、私の心を、私の感情を、私のスピリット(霊、魂)を、そして、私の身体を。』


日本語には、スピリットという言葉を正確に訳す言葉がありません。スピリットいうのは、ギリシャ語では、ピニューマと言い、“息”を表します。それは、神様が人に吹き込んだ、神さまの息です。


『主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。』(創世記2章7節)


聖書によると、人には3つの働きがある: 霊(魂)・心(精神)・身体(肉体)だと言います。(第一テサロニケ5章23節)・・・チャーリーブラウンの祈りは、この3つの働きのために祈っているのです。


<チャーリーブラウンの漫画>


The Peanuts gang


『ピーナッツ』という漫画は、チャールズ M. シュルツによって書かれ、描かれた、日刊紙および日曜版のアメリカン 漫画です。このストリップの最初の掲載は 1950 年から 2000 年まで続き、その後も再掲載されました。ピーナッツは漫画の歴史の中で最も人気があり、影響力のある漫画の 1 つであり、全部で 17,897 冊が出版され、それは「おそらく一人の人間によって語られた最長の物語」となっています。(参照:ウキペディア)


『ピーナッツ』の主人公は、チャーリーブラウンですが、彼は作者自身じゃないかと思いますが、彼は、どんな状況にあってもめげないのです。以前は、毎年のように、チャーリーブラウンのハローウィンの映画が放映されていました。みんながお菓子をもらうのに、チャーリーブラウンだけは石をもらうという話です。チャリーは、みんなにおちょこにされても、ひっくり返されても泣かない。くじけないで、仲間を愛するのです。


チャーリーブラウンの精神は、作家 チャールズ M. シュルツの信仰からくるように思い調べてみましたがみつかりませんでした。でも、シュルツ氏がクリスチャンであることは明白です。


(Peppermint Patty「チャック、おしえて “愛”って何?」 Charlie Brown「イエスさまのことだよ」。・・・これは、チャーリーブラウンとチャックスミスを重ねている漫画ですが、ここにクリスチャン精神が見えます。)


私たちがアメリカに来たころは、みなさんが優しくて、こういう人たちが“クリスチャン”というんだな~と思わされていました。・・・無差別に拳銃を発砲する人が現れるなんて考えてもみませんでした。


<「癒し」とは“慰められる”ということではない>


癒しとは、実際にその病気が治ることです。単に ‟慰められる”ことではない。神さまは、 ‟その気になれば” 癒されるのです。私はそれを経験しています。だから 祈ります。あきらめないで祈ります。


チャーリーは、自分の Memory(記憶)が癒されるように祈りました。誰でも忘れたい嫌な記憶があると思います。そして、そのほとんどが自分がしたことなのです。自分が犯したもろもろの過去は消えないし、忘れていいものではないのです。そして、それを赦していただけるのは、神さまによる以外にないのです。・・・この祈りには、神さまが相手のそのダメージを修復してくれるようにということが含まれるのです。


次に、自分の Heart (心)を癒してくださいと祈りました。私の心は痛んでいますか、苛立っていますか、悲しんでいますか、落ち込んでいますか、・・・神さまを喜ぶ心をとりもどすことができますように祈ります。


次に、自分の Emotions(感情)のために祈ります。主よ、揺れ動きみだれるこの感情を治めてください。・・・いまにも爆発しそうになったり、いっそのこと首をつって死んでしまいたいと思うような感情を治めてください。


次に、自分の Spirit (スピリット霊)のために祈ります。主よ、あなたが私の鼻に息を吹きこまれたので、私は生きるようになりました。主よ、もう一度、その息を吹き込んでください。私が今日のこの一日生きる霊的な力与えてください。そして、“主を喜ぶ”人生がつづけられますように。


そして、最後に、弱っている自分の Body(身体、肉体)のために祈ります。私たち“人”は生まれた時には弱くてもどんどん強くなり、絶好調を迎えた後は次第に弱くなり、死を迎えます。・・・主よ、最後まで、あなたに託された仕事をし終えることが出来ますようにこの身体を強めてください。・・・御国に召される時、あまり家族に迷惑をかけないようにしてください。・・・用意された、素晴らしい天の御国を望みつつ、祈ります。


文責: ロバート イー

「自由」を大切にしてほしい。「自由」は神さまからいただいたもっとも貴重なものです。

<テレサ・テンの歌、「悲しい自由」>


コンピュータがいっぱいになり、データを整理していたら、なつかしいテレサ・テンの歌「悲しい自由」が出てきました。この歌は、祖国のゆくえを憂い嘆く歌でした。たのしい歌番組のはずなのに、テレサ・テンは、その歌を歌う前に、自分の胸の内を語りました。


添付のビデオは、画像が悪く、音質も悪いので、テレサ・テンの話を書きとりました。彼女は中国で起こった天安門事件について話したのです。



悲しい自由(悲傷的自由) 1989年鄧麗君,請看獨白


“私は、Chinese です。世界のどこにいても、どこで生活しても、私は Chinese です。だから、今年の中国での出来事すべてに、私は心を痛めています。中国の未来がどこにあるのか、とても心配しています。・・・私は自由で居たい。すべての人たちも自由であるべきだと思っています。それが脅(おびや)かされているのがとても悲しいです。・・でも、この悲しくてつらい気持ちがいつか晴れる、だれもいつかわかりあえる。その日が来ることを信じて、私は歌っていきます。・・・それでは、最後の新曲「悲しい自由」を聞いてください。”


天安門事件が起こったのは1989年6月4日でした。中国に“自由”を求める人たち(若者たちからはじまり老年の者まで)多く人たちが天安門広場に集まり、“中国に自由を”と叫びました。私は、その時、サンタクララでシステム・エンジニアとして働いていたのですが、人々は、紙でつくられた「自由の女神」の人形を担ぎ、興奮が高まっていたその時、数台のトラックから降りてきた中国軍の兵隊が広場にいた群衆に向けて発砲し、多くの命が失われたのです。・・・中国の国民は、その時に、多くの“命”を失いましたが、それ以上に“自由”を得る希望も失ったのです。


その日は、中国の国民にとって、とても悲しい日でした。


<日本にも暗い、悲しい時代がありました >


日本でも大戦中、軍の支配下で自由が失われた時がありました。私の大学時代の先生方は戦争に駆り出された方々でした。前にも書きましたが、南方から引き上げる時に動けなくなった部下に、少しの米粒を握らせて手榴弾を渡さなければならなかったと聞きました。


土砂降りの雨のなかを行進する兵士たちは手榴弾が破裂する音を聞いたのです。


当時の先生方は、あの映画「青い山脈」の自由になった喜びを唄うより、どうしようもなかったあのときの悲しみを抱いていたのです。・・・”君たちは、決して、こんなことを許してはならない“と話されたのです。・・・戦争も、権力者の圧政も許してはならないと。・・・


でも、群衆は、容易に洗脳されるのです。日本人には、“日本のために・・・”というスローガンがいつも効くです。“日本人なんだから・・・”、“日本人なんでしょう・・・”


<“自由”は、人の“自由意志”は、神さまが与えてくださった恵みです>


神さまがどのように人を造られたかということが聖書の創世記1~3章に書かれています。


神さまは、世界を創り、それを治める人を造られてから「それは、はなはだよかった」と仰いました。リビングバイブルでは「非の打ちどころがなかった」と訳されています。


完璧な世界とは、問題がないという意味ではありませんでした。そして、2,3章で、人は食べてはいけないという「善悪を知る実」を食べて死ぬものとなります。


神は、人に「善悪を知る実」を食べるか食べないかの選択肢を与えています。それが“自由”ということです。神さまが人を造った時の必須条件は「自由意志」でした。神さまは、人と自由な関係を持ちたいと思っていたのです。


神さまは完璧なロボットを造られませんでした。完璧に自由に愛し憎み殺しあう人を造られたのです。・・・なぜなら、“愛”の必須条件が自由だからです。自由のない愛は、愛ではないのです。神さまは、人と愛の関係を持ちたいと思っていたようです。


はい、人は自由を乱用し、社会に害を加えるようなこともします。はい、自殺をする方たちもいます。悲しいけど、それも自由なのです。あなたの人生はあなたが決めるのです。だから、そういう自由を阻止する社会は、神さまが承認されないと思います。


中国だけではありません。世界のあちらこちらに圧政があり、人々は苦しんでいます。だから、神さまの介入を切に祈っています。神さまが出てくれば人間の自由は失われます。それでも、祈らざるをえないのです。


あれは、確か高畠通敏先生でしたか、(政治原論のクラスで)“奴隷も逃げて殺される自由がある”と言われたのを思いだします。


使徒パウロもコリントの教会の信徒に宛てて『わたしには、すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。わたしには、すべてのことが許されている。・・わたしは何事にも支配されはしない。』と書いているのです。(コリントの信徒への手紙一6章12節)


私たちは自由です。神さまは私たちに自由を与えられました。私たちは何も持たないで生まれると言われますが、自由と愛だけは持って生まれているのです。


文責: ロバート イー

神よ、主よ、なぜですか、どうしてこんなことが起こるのですか?

<15歳の歌手がVoilaという歌を謳ったのを聴きました>



Emma Kok - Voilà – André Rieu, Maastricht 2023


私は、彼女のこの歌を何度も聴きましたが、毎回、涙にくれるのです。フランス語の歌です。歌の内容は全然分かりません。分かる単語は ‟Voila” ヴォワラ(見て、これです)だけです。それなのに涙が自然にあふれてくるのです。


彼女の名前は、Emma Kok。そのか細い身体で、力強くクリアーな美しい声で歌います。彼女は、お腹が麻痺するという稀な病気で、食物はチューブでお腹に直接入れているのだそうです。この病気のため財団がつくられ、原因究明と治療方法を探っているということです。


彼女は、普通の生活をしたい、そして、将来、歌手になりたいと思っているのです。この歌に込められた感情は、彼女の病気に対する気持ちからくるのかも知れません。


<この Viola は、いわゆるシャンソンだと思いました>


シャンソンには、人生の悲哀を唄ったものがおおく、Violaもこの種の歌ではないかと思います。でも、この歌が私に訴えるのは、言葉(歌詞)ではなく、その響き(音律)からくるもののように思わされています。言葉は分からないのですから・・・。


私のブログの読者に、音が聞えない(補聴器の音量をあげると音は聞こえるけど、言葉にはならない)友人がいます。それで、こういうブログは出しにくいのですが、彼女はクリスチャンですから、私の無礼を許してくれると思っています。


<神さまに訴えるのは罪ではないと思うのです>


Emma の歌を聴きながら泣いている人は、‟かわいそうだ”と思ったからではないのです。Emma の歌声には「15歳で自分の人生と闘っている姿」があるのです。私は、Emma が “心配しないで、私は負けないから” と語っているように聴きました。


私には人生の問題をかかえた多くの友人がいます。若くして不治の病に侵されておられる方、障害をもったお子さんのケアをしている方々など、‟どうして、こんなことを神さまは許されているのだろうか?!”と思うのです。そういう方々のためにお祈りしますが、時には言葉になりません。


時には、「主よどうしてですか、主よ・・・主よ、助けてください」と叫ぶ以外にないのです。


<神さまを弁護するクリスチャンが多い>


自分も“愛の神さま”を信じるものです。その神さまが理解できない不幸を人々に与えられる。・・・でも、「不幸」は悪魔の頭、サタンの所為で、神さまは良いお方、「幸せ」を与えられるお方だと言います。


私もサタンの存在を知っています。悪霊が働くというのも経験しています。それより、私たち、信仰者の問題は、神さまの姿がどこにも見えない時があることなのです。


だから、私たち、信仰者は、神さまを弁護することではなく、たとえどんなことがあっても信じぬくという「信念」ではないかと思うのです。私はそういう信仰を見てきました。神さまは、そういう人々を誇りに思っているのだと聖書に書かれているのです。


信仰とは何か?・・・


『 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。』(ヘブル人への手紙 11章1~3節)


文責: ロバート イー