主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

アメリカには、同じ聖書を読みながら、いろんなクリスチャンがいます。


<アメリカのクリスチャンと言われる人々>


1. 原理主義のクリスチャン:原理主義のクリスチャンとは、聖書の言葉を神の真の声であると見なしています。たとえば、創世記の創造物語を読むとき、原理主義者は世界が文字通り7日で創造されたと信じるでしょう。


{それは、「聖書は、端から端まで、一字一句間違いない書物で、それを自分勝手に変更したり、勝手な解釈をしてはならない」と教会で教えられているからです。でも、その聖書はどの聖書ですか?私たちの手元には沢山の聖書(訳本)があります。どの聖書の一字一句が正しいのですか?その大元の書物も「写本」です。オリジナルは、失われているのです。}


2. 保守的なクリスチャン:保守的なクリスチャンとは、聖書は神に触発された人間によって書かれたと信じています。彼らは今でもその教えに従いますが、必ずしもすべての言葉を神の声であるとは限りません。たとえば、創造の物語を読むとき、保守派は、神の日の1つが必ずしも私たちの日の1つと同じ長さであるとは限らないことを受け入れるかもしれません。つまり、世界は文字通り7日間で作成されたのではなく、創世記に概説されているように神が世界を作成したということです。


{ 確かに、神の一日は千年のようであり、千年は一日のようでもあると書かれていますが、読む人によって内容が変わってくるのは、避けられません。}


3. 自由主義のクリスチャン:自由主義のクリスチャンとは、聖書を神について書かれた言葉と見なしています。これらはクリスチャンが自分の信仰を理解するための良いガイドですが、現代社会に合うようにパッセージ(聖書の文節)を異なるように解釈するかもしれません。たとえば、自由主義なクリスチャンは、創造の物語を読むとき、創世記の記述は、神が世界の創造者であることをクリスチャンが理解するのを助けるための単なる物語であると信じているかもしれません。


{ 聖書は、他の書物と違って、神さまの言葉、神さまの御心が書かれているものです。単なるガイドブックではないのです。単なる「神話」でもないのです。}


(https://www.bbc.co.uk/bitesize/guides/zfhf9j6/revision/3 から引用、コメントしました。)


<聖書は、どのように読めばいいのか>


聖書は、(手元にある何々訳聖書の)字義的解釈だけではわからないと思います。私は、時折、原語(旧約聖書はヘブル語、新約聖書はギリシャ語)を参照するのですが、(いつも)伝えられた言葉や自分たちが今使っている言葉というものは実に深淵だと思わされます。


みなさんは、アラビア語の聖書を読んだことがありますか?そこには、アブラハムがささげた子供はイサクではなくイシマエルになっているそうです。その理由は、現在の写本のひとつ前の文章には、“最初の子供”と書いてあるからイシマエルということになるのだそうです。(以前、働いていた会社のイスラム教徒で毎日お祈りをしている人から聞いた情報です。)


私は、旧約聖書のヘブル語の読み方がわからなくて、ユダヤ教のラビに会いに行ったことがあります。その箇所は、英語訳、日本語訳とも2通りに訳されているのです。どっちが正しいのか、どうしてそう読めるのか知りたくて、ヘブル語を使い、ヘブル語をそのまま読めるラビに訊きに行ったのです。


そのラビは、そのヘブル語に目を通すと、“どちらにも読める”というだけでした。“そう書いてないじゃないですか?”と食い下がったのですが、“そう読める”というだけです。それで、その時は、“やれやれ、時間の無駄だった”と思ったのですが、その後しばらくして、わかったのですが、ヘブル語はアナログ(つなげてまとめて読む)言語で、ギリシャ語のようにデジタル(文字を切断して分析する)で読む言語ではないということでした。


<どうすれば聖書をより正確に理解していけるのか>


それは、上からの知恵をもって読むということではないかと思わされています。自分の勉強・経験に頼って読むのではなく、上からの知恵で読むということです。


3:13 あなたがたのうちで、知恵があり物わかりのよい人は、だれであるか。その人は、知恵にかなう柔和な行いをしていることを、よい生活によって示すがよい。 3:14 しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。また、真理にそむいて偽ってはならない。 3:15 そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。 3:16 ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。 3:17 しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。 3:18 義の実は、平和を造り出す人たちによって、平和のうちにまかれるものである』(ヤコブ書3:13~18)


ここに上からの知恵は、分裂や紛争を起こすものではなく、平和のうちにまかれるものとあります。


聖書を使って、自分の意見を通そうとする人たちがいかに多いか、嘘を平気でばらまいている(自称)クリスチャンがいかに多いことか。


その知恵がどこからきたのか、上からの知恵だったのか、それともこの世の知恵だったのか。それを知るのは、その人が平和をまいているのか、分裂・闘争をあおっているのかでわかるのです。私たちは、いつでもどんな時でも、平和をもたらすクリスチャンでありたいと、そう思います。


文責: ロバート イー

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