主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

天の御国は、からし種のようなものです(マタイ13:31)

    (からし種=小さな粒々)


『13:31 ・・・「天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、 13:32 それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」。』(マタイによる福音書13章31,32節)


この小さな種の中に(人知では測り知れない)偉大な力が潜んでいるというのです。


<ヤコブ書の功罪はここです>


月に一度のアメリカと日本をつなぐ(ズームでの)聖書の学びで、今、ヤコブ書を学んでいます。


“あなたの信仰はどこにあるのですか?”“あなたの信仰を見せてください!”“もし、あなたの信仰が見えないのならその信仰は無益です”と書かれています。


そうですね、もし、わたしの信仰が何かの役にも立っていないなら、何の利益があるのでしょうか?そんなの自己満足にすぎません。


でも、キリスト教の信仰(イエス・キリストによる救いを信じる信仰)は、何かの役に立つために与えられたものではなく、イエスさまによる救いをそのまま受け入れただけなのではないのでしょうか。


<信仰の種は、生きなければ死にます>


この種まきのたとえ話(マタイ13:18~23節)は、いろいろなところにまかれた種が根付くのは、良い地にまかれた種だけだということでした。そして、この話は、種(神さまのみ言葉)を受け入れたひとたちのことだとイエスさまが説明されています。


ヤコブ書では、その信仰(救い)をしっかり受け取り、実生活に応用しなさい、活用しなさいと言っているのですね。そうでなければ、その種は“死んだ種”と同じだ。否、死んでしまっているのだ、と言ったのです。


<“信仰”は見えないのです>


「信仰があると言いながら行動に現れないのは信仰がないからだ」と、言う言い方は、イエスさまも使徒パウロもしていますが、気をつけないといけないのは、“救い”の本質を見失う論法になりかねません。なぜなら、「信仰」そのものは、もともと見えるものではないからです。


信仰を得るということは、(実存の)神さまを信じること、御子イエスの十字架のあがないを信じ、“安んじて、力強くこの世を生きていく”ことです。そして、その大元は、この小さな“からし種”のような“信仰”なのです。でも、からし種は見えますが“信仰”は見えません。


この小さな種から芽が出て、大きな木になり、実を結ぶというのです。が、これは、譬えです。あのビリーグラハムの信仰の木を見た人がいたでしょうか?その実はどんなものだったのでしょうか?これは、あくまでも figurative expression(比喩的な表現)です。


その人の信仰がいかに偉大であっても、それは、その人の信仰そのものではありません。その人の信仰は、誰も見ることはできません。神さまだけが知りえるものなのです。その人の偉業が信仰から出たものであっても、その“偉業”と“信仰”は別ものです。


<“信仰”は見せる必要のないもの>


イエスさまは、自分が信仰者であることを見せようとしたユダヤ人たちを叱りました。(マタイ6章)彼らは自分たちの信仰をほめられたいと思ったのですね。


人を助け、善をなすことは良いことですが、それが彼の“善意”から“愛”から出たものなのか、そうでない“不純な動機”からか、ということはいつも問われることです。


神さまからいただいた、この小さな種は、「神さまの愛」です。その愛は、「隣人への愛」となっていくはずです。ところが、それがかえって排他的になって、自分の極端な信条を貫こうとする人びとがいます。そして、自分は、神さまのためにそうしているのだと固く“信じて疑わない”のです。


こうなったらもうダメですね。彼の種は(根は)死んでしまっています。彼は、もう一度主の前に出て“悔い改める”必要があります。


<原点に帰りましょう>


私たちは、罪人です。神さまに背を向けていた者です。私たちは、何が善であり何が悪なのかわからなくなっていたものでした。わかっていることは、何が得か損かということだけ。私には、その損得のために全身全霊を注いでいた時があったのです。会社の発展のため、自分たち会社員の益のためという名目で働いていたのです。


“正しさ”は聖書の中にある。だから聖書を読み、聖書から“正しさ”を学ぼう、と言います。ある先生は、自分の塾をつくって自分の解釈を広げている人もいます。でも、私たちは、所詮あの象をさわっているめくら(差別語?)じゃないのですか?なのに、これが正しい、これだけが正しいと主張するようになる。


(私は、これまで何度自分の聖書理解を覆したことか。だから、自分の無理解・愚かさを熟知するものです。)


私たち信仰者にとって、(絶対的に)確かなものは、神さまからいただいた、この小さな“からし種”、”小さな信仰”、”小さな「神さまの愛」”だけなのです。


だから、この種を(死なないように)大切に、しっかりはぐくみ、育てていく、それがクリスチャンの仕事じゃないかと思うのです。


そのようにして、神さまの前に出たら、神さまは、その信仰を育ててくださると 「・・・天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる・・・」(マタイ5:45)と、私は信じるのです。


では、ヤコブ書はやはりルターが言うように、(中身のない)藁の書なのでしょうか?否、そうではないと思います。ヤコブ書は、神様からの警告です。ヤコブは今叫んでいるのです。「“あなたの種は死んでいませんか!” “もし、まだ生きていたのなら、(今すぐ)神さまからの雨をそそぎ、神さまの太陽をそそぎなさい!“ ”そうしなければ、あなたの種は死にます!“って叫んでいるのだと思うのです。


文責: ロバート イー

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