主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

幸せってよくわかりません。幸せって何ですか、どこにあるのでしょうか?

「おじさ~ん、しあわせちょうだい」
「あいよ」
「いくらですか」
「30円だよ」
「じゃ、三つちょうだい」


「おじさ~ん、しあわせください」
「アレ…、あんたいくつだね?」
「私、二十歳です」
「大人にや売れないね」
「私、ほしいんです…、どうしても…」
「おい、かあ~さん、へんな客だよ」 


(「5円の唄」TBS 『誰かどこかで』より)


幸福という用語は、満足から強烈な喜びに至るまでのポジティブまたは楽しい感情を含む、精神的または感情的な状態の文脈で使用されます。それはまた、人生の満足、主観的な幸福、幸福、繁栄と幸福の文脈で使用されます。(英語版ウィキペディアから)


山のあなたの空遠く
     「幸い」住むと人のいう
噫(ああ)われひとと 尋(と)めゆきて

       涙さしぐみ かえりきぬ
山のあなたに なお遠く

    「幸い」住むと 人のいう


(「山のあなた」カール・ブッセ/上田敏 訳)


聖書には、“幸せ”は“貧しさ”の中にあると書いてあります。どうして“貧しさ”が幸せなのでしょうか?私たちは毎日“豊かさ”を求めて生きているのに。(マタイ5:3、ルカ6:20)


私たちは何も持たずこの世に生まれ、次第に自分の能力と資産を持つようになり、自分の人生を確立していきます。そして、また、その獲得してきた能力と資産を次第に手放していき、最後には、何も持たずにこの世を去ります。


今あなたは、どこの段階にいるのでしょうか?それであなたは幸せですか?


<アンソニー・ボーデインの自殺>


日本の人にはあまり知られていないと聞いていますが、CNNの料理番組(?)「Parts Unknown」(アンソニー世界を駆け巡る)の主人公アンソニー・ボーデインが2018年にフランスのホテルで自殺し、世界に衝撃を与えました。



彼は、自分の好きな仕事をしているこの世の成功者でした。彼は多くの崇拝者を持つ有名人。彼の書いたものはベストセラーです。あのオバマ大統領と一緒にベトナムでライスヌードルをすする人でした。


彼の番組は、単に食物の話ではなく、人びとに人類の“文化”を味あわせるものでした。彼は、世界で最も贅沢な食事をし、貧困地帯にあっては、粗末な食事をしました。彼は、どこに行こうがそこの人たちとともに心を通わせる会食をすることができたのです。


ある貧しい国での話ですが、“お金のない人がまず買う食材は何ですか?”と彼が訊いたら、そこの人が“塩です”と答えたのを忘れません。塩があれば雑草でも食べられるのですね。


私は、アンソニーがインドネシアかどこかで、鈍行の列車に乗って外を眺めながら、何かをつぶやいていた時の横顔がすごく寂しげであったのを覚えています。疲れているのかなと思いましたが、生きているのがつらかったのだとは思いませんでした。


<経済大国日本の隠れた現実>


私は、アンソニー・ボーデインが世界の食事を通して“幸福”をさがしていたように思いましたので、日本では、食事を通して何を見ているのだろうか、とそう思ったのです。芸術だろうか?日本の食事は、味覚だけではなく、食器から雰囲気などすべてを包括するもののように思えました。


そんなことを考えていた私の目に、朝日デジタルニュースの老夫婦の餓死の記事が飛び込んできたのです。



{大阪市港区の分譲マンションでは、68歳の母と42歳の娘が餓死しているのが見つかりました。室内にあった現金は10円玉1枚と1円玉3枚の計13円。冷蔵庫の中をふくめ、食べ物は残っていませんでした。}


これは、その記事の中の挿入記事です。このようなことが今日本で頻繁に起こっているとのこと。私が青春をすごした日本に、こんな事が起こっているとは信じがたいことです。


朝鮮戦争時に、父が韓国から日本に派遣され、家族が日本に行ったのは私が7歳の時でした。戦後の日本は貧しい時でした。これが日本の人が食べている“外米”だと言われた、あのご飯のまずかったこと。


でも、そんな貧しい頃、食べ物が少なかった頃に、日本で人が餓死しているという話は聞いたことがありませんでした。子供たちは痩せていたけれども、食べていたのです。


今、食料が満ち溢れている、この豊かな日本で餓死する人がいるという。これは、自然災害ではありません。人災です。社会的な“犯罪”です。


ちなみに、(ここ)アメリカにも餓死する人たちがいますが、そういう貧困な人たちを援助するボランテアや社会的なシステムはあるのです。


この記事によると、近所の方が何かおかしいと思い尋ねたら餓死していたといいます。その人がそんな状態であったことに気がつかなかったと言います。そこには、自分からSpeak out しない(はっきり言わない)という日本特有の問題があるのかも知れません。“食べるものがありません”“食料を買うお金がありません”と援助を求めることができないのですね。逆に、援助を申し出たらその人のプライドを傷付けるのではないかと心配する場合もあるかも知れません。


私は、アンソニー・ボーデインが“食”を通して“幸福”を見ていたのではないかと言いましたが、日本の方々には、もう一度“食事”について見直していただきたいと思います。芸術もいいけど、食事は“生きる”ためのものだということを思いだしていただきたい。


日本には、世界の飢餓をなくす為に「日本国際飢餓対策機構」という団体があり、私たちも支援しているのですが、それは、食料のない国への援助です。日本は、食料が満ち溢れているのですから話がちがいます。


家族がいない身寄りの人がいない。居たとしても疎遠であるという人たち。そういう方々を救うシステムをつくっていただきたいです。「日本国際飢餓対策機構」とは別に「日本孤独飢餓対策機構」を作ってほしいのです。お願いします。私たちも喜んでその支援に参加させていただきますので。


<主の祈り>


『6:9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。 6:10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。 6:11 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。 6:12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。 6:13 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。』(マタイによる福音書 6章9~13節)


文責: ロバート イー

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