主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

20ドルの教え:必要なこと、良いことはただちにすればいい

<神の律法は、「隣人を愛する」ことに尽きる>


『5:14 律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きる・・・』(ガラテヤ書5章14節)


そこには IF(もしも)とか、BUT(だけど)とかはない。神さまが与えた“律法”(旧約聖書)は、お互いに愛し合うことだけだと使徒パウロは言い切っています。これは、言ってみれば爆弾宣言です。


だって、”律法”(法律)は、守れば”良し”、守らなければ”罰せられる”というものだからです。


<辻本先生来たる>


昔の北米ホーリネス教団の牧師は教団に属していて、教団の任命委員会によって牧師は、どこにでも行かされたのです。定期的な大移動もあったので、そこの牧師館やアパートに住み、自分の家を持つということはありませんでした。もし、任命された教会に行きたくなければ教団をやめる以外になかったのです。


私たちが救われた教会、LA Holiness Churchの末広栄治先生が引退され、新しい先生が来ることになりましたが、どなたが来るのかわかりませんでした。公表されるまでは、任命委員会の人とその牧師本人以外誰にも知らされないのです。


でも、公表まじかになって、噂が伝わってきたのです。「・・・辻本清臣という“いじわる”で“つめたい”と言われる人かも知れない」。辻本の“辻”は、「辻斬り」の“辻”だというのでした。そして、その悪い冗談が本当になったのです。


確かに、この先生は、若いくせに「歯に絹をきせない」人で、人使いも粗い。言葉づかいは丁寧だけど、はっきり物を言う。(それも、本人は、ちゃんと日本人ははっきり物ごとを言ってはいけないのだと知っているのです。)


<この辻本先生とは長い付き合いになりました>


この先生とは、それからもう50年近くつきあってきました。 LA Holiness教会から、オレンジ郡教会の立ち上げ時にも、そして、私たちがサンフランシスコに移転した時の(旧)San Lorenzo Holiness教会にも先生は来られました。そして、私たちが再びロスアンゼルスに戻って来てからも、(奇しくも)GVIC(ゴスペルベンチャーインターナショナル教会)で同じく奉仕をさせていただいています。


先生は、その北米ホーリネス教団の書記長にもなった有能な方ですが、教団に縛られるような方ではありませんでした。逆に、教団は、無牧になった教会の牧会をお願いするという具合で、先生はいろいろな教会を助けて来られたのです。


<20ドルの教え>


辻本先生ご夫妻がLA教会に赴任した時、私は教会の青年会(友愛会)の主事をやらされていました。主事というのは“主に”“仕事”をやるという役目だと言われて、なんでもしなければなりませんでした。


当時、友愛会では、出せる人たちから、友愛会費をつのっていました。そして、それを献金箱に入れ、出入明細表をもって管理をしていたのです。


ある時、(具体的なことは忘れてしまいましたが)友愛会費からある兄弟に20ドルをあげるかどうかという問題(?)がもちあがりました。ちなみに、当時の20ドルは、今の101ドルくらいになるそうですが、友愛会の献金箱には、そのくらいしか入っていなかったと思います。その青年のために友愛会からお金をあげるのか貸すのかわすれましたが、友愛会の“公金”をそういう個人的な援助目的のために用いるということが良いのか悪いのかという話になっていったのです。


私は、先生のオフィスに行き、先生に事の次第を話し、友愛会のお金を運用してもいいものだろうかと訊ねたのです。先生は、私の話を聴き終えると“いくら必要なのですか?”と訊きましたので、“20ドルです”と答えると、懐から財布をだして、“はい”と20ドル札を差し出したのです。私はあわてて、「先生に出してくれといっているのではなく、みんなは、援助したいと思っているし、こういう時こそ友愛会のお金を使ったらと言っているのですが、そんなことを私たちだけで決められないので、先生のお考えを聞きたいとそう思ってきたのです」と言いました。


先生は、“そんな事はどうでもいい”と言いたげに、その20ドル札を突き付けて、「必要なんでしょう。持っていきなさい」と言われました。その時、私は頭の中で、“この先生は何を考えているのだろうか”と思いめぐらしていたのです。


“先生は、私たちが20ドルというお金の運用について検討しているのを愚かなことだと思われたのだろうか?20ドルを必要としている人がいるなら、さっさと工面してやればいいじゃないかと思われているのだろうか?”


先生が、早く持っていけというように突き出すので、私は、しかたなくそれを受け取ると、先生は、すぐに仕事をし始めたのです。(出て行け!みたいに)


これを読んでいるみなさんにとっては、こんなことは大した事ではないと思われるかも知りませんが、私は、この時の事を50年ちかく経った今でも忘れられないのです。それは単に20ドル(101ドル)もらったという話ではなく。必要なら、困った人がいたら工面してやればいいんだ。公金がだめなら自分で、または、皆で出しあえばいいのだ。人を助けるのに、こういう時はいい、こういう時はダメという、論理付けなどは必要ないのだということなんですよね。


<イエスさまは、安息日に病人を癒しました>


ユダヤ人は安息日を大切にしていました。(今も大切にしています。)安息日には、仕事をしてはならないのです。当時、“癒し”は仕事とみなされていましたのに、イエスさまは、安息日に病人を癒したのです。安息日がすぎるのを待たなかったのです。


『6:6 また、ほかの安息日に会堂にはいって教えておられたところ、そこに右手のなえた人がいた。6:7 律法学者やパリサイ人たちは、イエスを訴える口実を見付けようと思って、安息日にいやされるかどうかをうかがっていた。・・・ 6:9 そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたに聞くが、安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」。 6:10 そして彼ら一同を見まわして、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、その手は元どおりになった。 6:11 そこで彼らは激しく怒って、イエスをどうかしてやろうと、互に話合いをはじめた。』
(ルカによる福音書6:6~11)


規則や決まりというのは、それなりに理由があるし、守るのに越した事はありません。特に、「安息日」というのは、神さまから与えられた「十戒」に書かれている戒めです。なのに、イエスさまは、安息日に“善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか”とおっしゃった。私は、この言葉を聴くと、あの時のあの20ドルの教訓を思い出すのです。


私たちは、“今”何をすべきなのかということがわかったら、そうすればいいのですね。愛するのに条件はいらないのです。言い訳も。


文責: ロバート イー

×

非ログインユーザーとして返信する