主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

「大胆に罪を犯しなさい」とマルチン・ルターは言った

<メランヒトンへの手紙で>


ルターは、「あなたが恵みの説教者であれば、作り物の恵みではなく、本物の恵みを説教しなさい。もしそれが本物の恵みであれば、作り物の罪ではなく本物の罪を負いなさい。神は作り物の罪人を救われはしない。罪人でありなさい。大胆に罪を犯しなさい。しかし、もっと大胆にキリストを信じ、喜びなさい。」と書いています。


フィリップ・メランヒトンという人は、ルターに共鳴して宗教改革に参加した人で、体系的・知性的であり、ルターの思想を体系化していく役割を担ったと言われる人です。


その人に「本物の罪人になりなさい。そして、本物の恵みを語りなさい」とルターは言っているのです。


<本物の恵みを語る>


北米ホーリネス教団を立ち上げた葛原定一先生がシカゴからロサンゼルスに来られた時の礼拝で、「自分はかつて“地獄の葛原”と言われた」と話されました。先生は、路傍伝道をしていた時、いつも道行く人々に“あなた方は罪人です。このままでは地獄にいきます。”と叫び続けたというのです。



葛原先生は、そんな自分は間違っていた、神の恵みはそんな脅迫的なものではないという話をされたのですが、私たちは、皆“罪びと”だし、そのままでは滅びゆくのです。だから、そのメッセージそのものは間違ってないと思います。


それに、多くの人びとは、「自分が“罪びと”である」という認識がないのです。だから先生は、大声で、「あなた方は、罪びとです。地獄に行きます」と警告しなければならなくなったのです。


自分は、本当に“罪びと”なのだと認識し、許されるべきでない自分がイエスさまの十字架のあがないによって許されたという実感をもっている人こそ「本物の罪びと」だし「本物の恵み」を知るものなのです。


ルターは、教会でメッセージを語る者は、自分こそ“本物の罪びと”であるという認識をもって教壇にたちなさい。そうでなければ“本物の福音”、“本物の恵み”は語れないというのです。私も教壇に立つ者ですので、この“本物の恵みを語れ”という言葉には、いたく反省させられます。


<神さまは、作り物の罪人を救えない>


海でおぼれているものに救命用具をなげてやっても、自分が“おぼれている”という自覚がない人を救うことはできません。救命用具にしがみつこうとしないからです。


そういう私も自分が罪びとだという意識はあまりありませんでした。それよりも“神さまが私を愛し私をいつも助けてくれていた”という思いで、神さまを探し求めるようになったのです。


自分がどうしようもない“罪びと”だということは、しばらくしてからわかってきたのです。そして、それがわかる前は、キリストの十字架(贖い)は、単なる教理でしかなかったのです。


私たちは、神さまに近くまみえてはじめて「自分の姿」を認識するようになるようです。


<ありのままの自分の姿>


ルターは、私たちに“大胆に、ありのままのみじめな姿で生きなさい”、“飾ることなく、言い訳することなく、大胆に生きなさい”というのです。そうでなければ、神さまは、私をあなたを救うことはできないというのです。


着飾って、言動につつしみ、“立派な人”“敬虔なクリスチャン”と言われる人より、ありのままの問題の多い人の方が救われるというのです。教会には、「自分は罪びとです」と言いながら、本当は、聖人だと思っている人がいかに多いことか。(聖書にある“聖徒”という言葉は、“分け隔たれた”という意味であって、“聖い人間”になったという意味ではありません。)


この手紙の言葉には、多分、「救い・義認」についての神学的論争を背景にしていると思われますが、本当に自分が“罪びと”だという意識持って、主と共に生きている人は、幸いです。あなたは間違いなく救われているのですから。間違いのない本当の恵みをつかんでいるのですから。


『イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」』(マルコによる福音書2:17)


文責: ロバート イー

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