主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

信仰って必要なのでしょうかと訊かれたら、どう答えますか?

<なんで宗教人は宗教を勧めるのでしょうか>


家のワイフは、自分がいいと思ったものは、なんでも人に勧めますが、それが一銭でも自分の得になるものだと途端に勧めることができなくなります。多分、“人を利用している”というように感じるのでしょうか。こういう人は、営業の仕事はできませんね。


どんな宗教でも何か“”善いこと“を見つけて、始められたのだと思いますが、でも、それが(実際に)商売になってしまったら終わりだと思います。


自分は宗教を求めるタイプではありませんでしたが、早朝、尾山礼二先生のラジオを聴いて、高田馬場教会をさがしたことがありました。でも、その時は、迷って別の教会に行ってしまったのです(--;)。


ラジオ番組で有名なのは、「世の光」でした。羽鳥明先生の声を今でも覚えています。先生方は、みなさん自分の宗教を広めようとしているのだなと思いました。それも、みなさん多くの犠牲をはらい努力しているのですね。


“これが本物ですよ。これを信じなさい。そうすれば幸せになります。”と呼ばわっているように思いました。


<“神”とは何か>


渡辺暢雄先生によると、すべての宗教に“神さま”があるのではないそうです。仏教は、真理を語っても、“仏”(悟り)を論じても、“神さま”は出てきません。“神さま”と言う具体的な存在を大前提にしていないからだそうです。


仏教の本質は、この世の不合理を解き明かし納得しようとする、きわめて形而上学的な普遍的な思想・哲学なのですね。人間が“絶対的なもの”を求めていくのです。人の目で見えない“絶対的なもの”を見ようとする努力。かの宮本武蔵が人を切った後に仏像を彫る姿かな。


一方、神さまの存在を大前提にする宗教は、神さまの声を聞くことから始まるようです。神さまの方から人間に語るのです。いわゆる“啓示”です。聖書によると、神さまは、人をつくり、その人アダムに語られました。アブラハムに語られました。幼い子、サムエルに語りました。こういう宗教は、“神さま”が主体で“人”は客体ということになります。


<“神さま”は語ります>


神さまは語ります。その声は、この世の“音”ではないのですが、聞こえるのです。夜中に聖書を読んでいて感動で震えるという経験をすることがあります。なぜですか?それは、神さまの声を聞いたからですね。


“風”は、見えませんが、風の動きは私たちの肌に感じることができるのです。私たちはそのように神さまの臨在を認知することができると思うのです。でも、だからってどうなのでしょうか?神さまは、私と何の関係があるのでしょうか?困った時にでも、神さまに助けてもらえればいいじゃないかと思われるでしょうか。


いずれにしても、私たちが神さまを知ることができる。神さまの存在を知るということは、画期的なことだと思います。その為に私たちは神の声を聞くのです。


神さまは、ヨブという人に嵐の中から語られました。大声だったでしょうね。でも、預言者エリヤには、(わざわざ)小さな声で囁いたのです。


『19:12 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。』(列王記I 19章12節)


もし、そういう声を聞いたら、”はたして人に宗教が必要なのだろうか“と問うことはなくなると思うのですが、いかがでしょうか。


文責: ロバート イー

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