主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

末広栄司先生のぬくもりはあの厚手の握手でした

<礼拝後には、かならず握手>


私たち夫婦は、末広先生から洗礼を受けています。妻はイースターに受洗、私はクリスマス礼拝で受洗したのです。摘礼(浸礼でなく、水を垂らす洗礼)でしたが、たっぷりと注がれました。


当時のロスアンゼルスホーリネス教会は、日語部だけで200数十名の方たちが礼拝を守っていたのですが、礼拝後は、末広先生がドアのところに立ち、帰られる方々に一言二言声をかけ、握手されていました。


私たちは、礼拝後に昼餐会があり、いろいろな仕事があって、横のドアから抜け出したのですが、たまたま先生と握手するときは、そのやわらかく暖かい手のひらを感じました。


<末広先生と親しくなったきっかけは>


私の信仰は、教会の青年会(友愛会)ではぐくまれました。ですから、青年会を指導してくれた松田先生や(当時の友愛会の主事だった)芦沢兄たちにお世話になっていたので、末広先生とは、あまり付き合いがありませんでした。あのやわらかい、温かい手のひらだけです。


ところが、ある時、先生が第二コリント5章の9~10節『5:9 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。』というところから、“私たちのこの世の行いが天の御国にて評価され、それ相応に報いられる”というお話をされたのです。


それもヤスパースというあまり聞かれない哲学者の名前などを挙げて、カントの純粋理性批判もとりあげて、いわゆる“報いを期待しない愛“との関係を語ったのです。末広先生が礼拝説教で哲学を持ち出したのは、私の記憶では、この時だけでした。


神さまの愛は、人類にたいする普遍的な愛です。極悪な罪びとをも愛するのです。もし、神さまが、この世における“業績”をもって、私たちを評価するというのなら、この世的な“因果応報”になってしまわないだろうか?


私は、末広先生の考えをもっと知りたいと思って、先生に質問したのです。先生は、「私は、主にあって偉大な働きをしてきた人たちを知っています。そういう方々により多くの祝福が与えられるのは、当然だと思います」と答えられたのです。そして、それ以降、先生との関係がぐんと近くなったのでした。


ある求道者が、先生のメッセージに感動して、先生の話をもっと聞きたいという時には、先生に電話して、彼を連れていったこともありました。


現在、松山のホーリネス教会で牧会している浅野孝幸先生が求道者の時、“洗礼を受けることを考えている”というので、早速、引退される末広先生に電話して、(3日後にひかえた)末広先生の最後の礼拝の時に受洗されたのです。


<ネクタイは一本あればいい>


末広先生は、簡素なお方でした。ある時、先生が「自分は、ネクタイを一本しかもっていない」と言ったら、ネクタイを縫う工場に勤めていたM姉妹が自分で縫ったネクタイを数本さしあげたのです。そうしたら、先生は、「今まで、教会に行くのに簡単に準備することができなのに、今は、毎週どのネクタイをしていいのか迷って、困っている」と話されたのです。


どういうわけだか、夕飯を先生によばれた時がありました。私だけです。私は、いつも妻と一緒なのに、その時は私ひとりでした。(もしかしたら、妻が日本に行っていた時だったのか?)


その食事は、貧しい私たちの食事よりも質素なものでした。覚えているのは、トウモロコシ(たぶん、缶詰じゃなかっただろうか)。でも、とてもおいしかったのです。少なくもなく多すぎなく、十分に満足して帰ったのを覚えています。


昔の牧師は、皆人格者だった。(例外もあるかな?)・・・末広先生、天国でまたお目にかかります。


文責: ロバート イー

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