主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

頑張るのか頑張ってはいけないのかよくわかりません。

     (イスラエルの湖)


<この世は、頑張る世界です>


この世の中は、競争の社会、頑張って成果をださなければ落されるのです。先日終わったオリンピック、パラリンピックは、頑張る世界ですね。特に、パラリンピックの選手の皆さんは、多くの感動を日本の方々に与えてくださいました。“生きるってこういうことなんだと教えてくれた”と日本にいる姉は言っていました。


なのに、教会では「頑張るな」「すべてを神さまに委ねなさい(まかせなさい)」と言います。教会には、疲れはてて“安らぎ”を求めて来られる方々がいますから、まさか“もう少し頑張れよ”とは言えません。


でも、いつまでも(教会で)ぐだぐだしていることを神さまは、望まれているのでしょうか?いつまでも引きこもりから抜けられない、抜けようとしない人びとを神さまは喜ばれているのでしょうか?


現実に、神さまは、日夜切磋琢磨し、努力の限りを尽くしている人々を祝福しているのです。勿論、自分の力だけを信じ、おごり高ぶる人をいさめますが、自分を確立し、努力して社会に尽くし神さまに栄光を帰する人々を喜ばれています。旧約聖書の箴言は、そのためのガイドのような書物ですね。


<頑張るって、なんでしょうか>


頑張るって“自分の力以上にやること”ですよね。でも、そうすることによって、少しずつ余計にできるようになるのです。でも、それをあまりに(無理に)やりすぎると、身体を壊し、精神をやられます。私も、その体験者のひとりです。


身体のダメージは、リハビリなどで回復できますが、精神的なダメージはなかなか取り戻せません。いや、いつまでも残るんですね。戦争で毎日命をはってきた兵隊は、除隊してもその亡霊と闘わなければなりません。


<肉体と精神と霊の関係>


私は、毎日が不安でどうしていいかわからない時をすごしました。そういうだけで、(経験された方がたは)その不安がどういうものかおわかりになると思います。


不安はパニックになり、心臓が早くなり、身体が硬直してきます。それが高速道路で65~75マイル(104キロ~120キロ)で走っている時に起こったらどうします。それで、私は、何とか車を止めて、救急車で病院に運ばれたことがありました。(その後2度も救急車で運ばれたのです。)


お陰で、私は、神さまに祈ることを学びました。どう祈っていいかわからない時は、トイレに入って、「主の祈り」をしました。神さまにパニックにならないように祈りました。心臓が早くなりそうな時(あっ、やばいと思ったら)“主よ助けてください!”って神さまに呼ばわりました。そうしたら、神さまは、止めてくださったのです。これが「お祈り」です。お祈りは聞かれるのです。


祈る時は、あのヤコブが神さまと相撲をとるように祈るのです。(創世記32:24)


私は、少しづつ自信をつけていきました。精神科のお医者は、精神を抑える薬を処方するだけ。医者に長くかかっていれば、それだけ医者が儲かるという商売です。勿論、そういう薬が必要な時もあります。でも、できるだけ早く、そういう薬やそういう医者と手を切ることです。あなたのメンタルは貴方しか治せないのです。そして、それは、自信をつけることです。


朝起きて、お祈りして、支度をする、その一つ一つを意識的に確認しながらやるのです。自分はこれが出来た、これも上手にできたと確認していくのです。


人間の身体のほとんどは、自律神経がやってくれるのです。精神を病むとこの自律神経が上手く働かなくなるのです。その自律神経に“あなたはちゃんとやってるよ。ありがとうね。”と言ってあげるのです。そうすると、身体が順調に動くようになり、精神も安定してくるというわけです。


<主にあって、力強く生きる>


私は、こういう病気を通して、いろいろなことを学びました。まず、この病気は、自分の傲慢さから来たということです。そして、それ故に、自分が(肉体的に)できる以上のことを肉体に強いたということです。


私は、神さまを侮っていました。私は、“信じてやってんだぜ”という思いだったんですね。


3年ぐらいかかりましたが、私は今までにまして積極的に仕事にとりかかるようになりました。主にあって強くされたのです。それは、神さまとの交わりからくるものです。相変わらず失敗もし、失望の時もありました。でも、神さまに失望したことはありません。振り返れば、楽しい人生でした。まだ、終わってないけど。


『最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。』(エペソ6:10)と聖書は、言っています。だから、頑張りましょうか!


文責: ロバート イー

×

非ログインユーザーとして返信する