主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

現代も末のこの時代に、前近代に生きる日本があり、近代からまだ抜けられないアメリカがある

(ニューヨーク、右端に「自由の女神」が)


<なぜ、アメリカは“武器の取り締まり”ができないのか>


なぜ、アメリカの人たちは、武器を持つのか、どうして銃の乱射事件が起きるのか、どうして国はそれを許しているのか?これは、日本の文化を持つ我々には、どうしても理解できないことです。


人が無意味に殺されているのに、アメリカでは、国民を守ろうとしない、ように見えます。アメリカは、憲法で「個人が武器を保持することを“個人の基本的な権利”として認めている」のです。武器は、自分を守るための道具で、生きるのに必須なものと考えられているのです。


<個人の尊厳、個人の自由>



アメリカの建国精神は、“近代”です。近代は、集団社会(村)から個人が独立した時代です。それを「個人の尊厳」といいました。神さまが私たち(一人ひとりに)自由意志を与え、自分の幸福を自由に追求していく権利を与えているのだというのです。だから、leave me alone(わたしをほっといて)という価値観になります。Privacy(他の人が干渉できない領域)を尊重しなければならないという価値観です。


かつてアメリカに渡ってきた人々は、完璧な自由を求めてきた人々でした。カトリック教会の支配からも自由になりたいと思う人たちでした。(バイデン大統領は、ケネディーに続いて2人目のカトリック信者です。)


アメリカ人は、自分たちで自分の土地を確保し、自分たちの命も家畜も財産も自分たちの手で、守ってきたという意識があるのです。ですから、自分たちの財産がとられるという“共産主義”を徹底的に嫌い恐れています。社会主義も共産主義と同じように考えられています。


それで、国という概念は、人の生活を規制する、“必要悪”とさえ考えられています。余計な規則や税金は少なければ少ないほどいいという考えです。今の共和党がそういうイデオロギーをもっています。


一方、民主党は、“規制をなくして自由にすれば、金持ちがより金持ちになり、貧乏人がより貧乏になり、不況がやってくる”(本当のこと)、だから、国(政府)は、それを是正しなければならないという考えです。それで、(民主党になると)政府がどんどん大きくなり、税金も増えてくる。それでも、基本的精神は、あくまでも「自由」です。


<なぜ、マスク着用がそんなに問題なのか、なぜ、ワクチンの接種に反対するのか>


フロリダの知事が学校などで「マスク着用を強制したら、州の援助を止める」と宣言しましたが、裁判所が“今は、緊急時だから強制できる”と判断したというニュースがありました。


この知事は、「すべての生徒にマスクを用意するのは大賛成だ, だけど、マスクをつけなければ教室に入れないとしてはいけない。それは個人の(親の)自由に任せるべきだ」と言ったのです。


ここで、注意しなければならないのは、この知事が「“個人の自由”がどんどん失われている」という怖れを持つ多くのアメリカ人を代表しているということです。マスクをするかどうか、周囲の人たちへの影響を心配するかどうかということもその人が判断することで、周囲の人がとやかくいう話ではないという立場なのです。公共団体が個人の生活に“介入”してはならないということです。顔を覆うかどうかはその人の生き方(個人の生活)だというのです。


<日本は「個人の尊厳」を否定した>


欧米諸国が押し寄せた、あの明治維新において、日本は、当時の西洋の精神である「個人の尊厳」を学ぼうとしませんでした。日本は、『富国強兵』(経済を発展させて軍事力の増強を図る)と『和漢洋才』(日本古来の精神を大切にしつつ、西洋からの優れた学問・知識・技術などを摂取・活用する)という政策をとってきました。


“洋才”とは、西洋の技術のことで、技術を受け入れるけど、自分たちの文化は譲らないということです。中国では「中体西用」、朝鮮・韓国では「東道西器」というスローガンが用いられたと言います。即ち、当時の東洋諸国は、西洋の文明(技術)の高さに翻弄されたのですが、時の指導者たちは、自分たちの支配を守るため、当時の集団優先の考え方を死守したのです。


その価値観は、社会があって個人がある(前近代)という考え方です。


ですから、民主主義といっても、形ばかりで、いまだに「親方日の丸」(国の支配者に任せれば、自分たち国民の世話をしてくれる)なのです。自分たち(国民)が主権者で、国の支配者であるという意識はないのです。国が決めれば、それに従うしかないという考えになります。


<アメリカと日本のはざまに生きる人々>


日本の文化の中で育った人たちがアメリカで生きるのは、このような価値観の違う社会に生きているということです。そして、その子供たちにも、“日本の文化”の影響を見ることがあり、よくバナナと言われますが、それは「外が黄色だけど、中は白い」という意味ですが、単に外見の問題ではないのです。


アメリカでは、なんでも“自分”が決断しなければなりません。いつも“自分の決断”を求められます。そして、その決断の結果の責任は“自分”に課せられるのです。それが、「自由」ということです。もう、“親方日の丸”ではないのです。


<キリスト教と“私”>


アメリカに来て、キリスト教にふれ、クリスチャンになる人が多いのですが、それは周囲の影響は勿論ですが、「自己の認識」に負うところが多いと思います。


旧約聖書の詩編に『139:1 主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。 139:2 あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。 139:3 あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。 139:4 わたしの舌に一言もないのに、主よ、あなたはことごとくそれを知られます。 139:5 あなたは後から、前からわたしを囲み、わたしの上にみ手をおかれます。』という言葉があります。


神さまが“私”を知り、“私”を守っていてくださるということですね。


アメリカで学ばされることは、「私が、“自分の意志で生きる”」ということです。他の人の目を気にしなくていい。もし、まだ気にしていたら、否、気にしなければならないと思っていたら、まだ日本で生きているということになります。(勿論、それでも、いいんです、自由なんですから。)


ただ、その人に「個人の確立」があれば、このみ言葉の“主”と“わたし”が一本線で結ばれるということです。そこには、私の他に誰もいないのですから。


神さまは、“私”を知り、“私”を守っていてくださる、それがキリスト信仰です。


文責: ロバート イー

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