主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

わたしたちがこの世に残していけるもの


<若くして亡くなった人の残したもの>


“二年前、夫は58歳でこの世を去りました”という言葉ではじまる、この話を読んだ時、56才でなくなった私の父のことを思いだし、“大変だっただろうな”と思いました。


「夫が残してくれたものといえば、夫の祖父が建てたという広い土間があるのが特徴の古い日本家屋だけです。それでも、雨露がしのげるだけ感謝しようと子どもたちと話し、私もパートに出ることを決めました。」と言います。(私の父も残してくれたのは、(母親名義の)家屋だけでした。)


そんな親子3人、財産なんか何もないと思っていたら、税理士さんがお父親の残してくれた銀行の通帳の束を持ってきてくれたという実際にあった話です。亡くなったお父さんの心のこもった贈り物でした。


毎月、積み立てられた金額は多くありませんでしたが、妻の誕生日と結婚記念日に、子供たちへは生まれた時から積み立てられていました。その通帳には、そのお金の使用目的まで書かれていたのです。子供たちのには『結婚資金』と『子育て援助』と書かれており、奥さんには『退職後の海外旅行』と『老後資金』と書かれていました。すごい人だな~と感嘆させられました。


(その記事はここに:https://news.yahoo.co.jp/articles/adda38515a017634874648a9cf6dd5fa10e72dfa?page=1


<私は何を残していけるのだろうか>


私は、正直いって「自分は何をのこしていけるのか、などと考えたことはほとんどないのです。そんな余裕がなかったからなのか、子供たちがしっかりしていたので、計画的な援助が必要とは思われなかったためかわかりません。


ちなみに、私たちは Living Trust(生前信託)という手続きをして、万一自分が他界したら、すべての資産は自動的に妻に、妻も他界したら、二人の子供に分配されるようになっています。


話を58才で他界した方にもどすと、この方は自分と奥さん、お子さんふたりの人生計画をたてて、コツコツと積み立て貯金をしていたのです。58才という働き盛りで天に召されたことは予想外でしたが、彼なりに彼の愛情をこういう形で残すことができたのですね。


聖書に、「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」(箴言19:21)という言葉があります。


私たちは、多くの計画を立てるけれど、神さまのみ心だけがなりますと語っているのです。なぜ、この方が58才という若さで亡くなったのか、それは神さまだけが知ることですが、そういうわからない人生の中で、この方は彼なりの最善をなしてきたのです。


でも、残念ながら「神さまがすべてをつかさどり、ご家族を見守れている」ということを知りませんでしたね。


<神さまのみ心をさぐる>


神さまを信じさせていただくようになると、神さまのみ心は何なのだろうかとたえずさぐるようになります。神さまが私にとっての最善の道をご存じだと信じるからです。それに、神さまが望まれることをしたいと思うようになるからです。


“He” knows the best(神さまは何が最善であるか知っている)


何で聖書なんか読むんですか?と訊かれるのことがあります。それは神さまのことを知るためですと答えます。もし、あなたが誰かから手紙をうけとるとその文面にその人の人柄を思い浮かべるに違いありません。聖書を通して神さまがどのようなお方で、どんなことを喜ばれどんなことを嫌われるのか次第にわかってくるのです。


じゃ、なぜクリスチャンはお互いにいがみあっているのでしょうか?・・・それは、私たちが神さまの愛を見失ってしまうからだと思います。おたがいに正しさを主張するばかりで神さまのみ心をないがしろにしているからです。自分たちの利益を優先的にしているからです。そして、憎みあい殺しあうのです。


6:9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。 6:10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。 6:11 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。 6:12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。 6:13 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。』(主の祈り:マタイ6:9~13)


がこの世に残せるものは、その人がどのように生きてきたかしかないかなと思います。人はその人が信じたように生きて死ぬのでしょう。


文責: ロバート イー

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