主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

神さまのご計画とわたしの計画の関係(その3)

<神さまのご計画とはなにか>


聖書によると、神さまは、土くれ(アダマ)から人(アダム)を創り、その鼻に「神さまの息」を吹きこまれて、人は生きるものとなったと創世記の2章に書かれています。なぜですか?どうして神さまは人をつくられたのでしょうか?


神さまは、人を創られる前に全地をつくり、植物・動物・魚・鳥、すべての生き物を治めるようにお与えになられました。・・・ただ、そこに一つの条件が与えられます。


あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう』(創世記2:16~17)と言われたのです。


ところが、3章に入ると、良き助け手として与えられたイブが蛇(サタン)に唆(そそのか)されて、その禁断の実(善悪を知る木の実)を食べるのです。・・・それで、人はこの楽園から追い出されるのですが、古くからこの出来事を「原罪」と呼び、(この時から)伝統的に人は“罪びと=悪人”になったと言われます。


神のご計画は、人が楽園で楽しく幸せに住むことだった。それが神さまのご計画だったのに、人はそれに従わなかったと言います。・・・それじゃ神さまのご計画は失敗したということなのでしょうか?・・・聖書には、神さまのご計画は必ずなると書かれているのです。神さまのご計画は失敗されないというのに、どうしたのですか、創られた人間は不良品だったのですか?


人の心には多くの計画がある、しかしただ主のみ旨だけが堅く立つ。』(箴言 19:21)


ちなみに、創世記1章では“神が創造されたものは、はなはだ良かった”と書かれています。エペソ書2章には、“人は神さまの傑作だ”と書かれているのです。


もし、神のみ旨が(間違いなく)なるというなら、神さまは、人が「善悪を知る木の実」を食べることを予期していたはずです。つまり、人が与えられた自由をもって(禁断の実を食べ)“善悪を知る能力”を獲得することを見通しておられた(計画されていた)ということになるのです。そして、人は死ぬ者となることを選んだのです。


「神さまが“自由”を与えた」ということは、神さまは、その人の自由意志を尊重するということです。


神さまが望まれたのは、そういう自由意志をもった人との交流なのです。本当の愛は自由なんです


<自由なのだからなんでも許されるのだろうか>


すべてのことは、わたしに許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは、わたしに許されている。しかし、わたしは何ものにも支配されることはない。』(第一コリント6:12)


ドストエフスキーの小説「カラマーゾフの兄弟」に“もし神がいなければ、すべては許される”という言葉があります。・・・実際、わたしたちはそのように生きてきたのです。いろいろな制限はありましたが自分の自由意志をつらぬいて生きてきたのです。みんな自由意志をもちいて自分の幸せを追求しているのです。


兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。』(ガラテヤ書5:13)


神さまが事前に私の人生計画をたてていて、その計画にそって生きることを私たちに期待していると教える先生方もいます。・・・でも、そうでなくて、神さまは、失敗する私たちが失敗しながら神さまに出会うことを期待していると思わされているのです。


<神さまを知るよい方法はあるのか>


神さまはいろんな方法で語ると言います。嵐のなかから語り、“細き御声”でささやくのです。・・・それらを「啓示」といいます。・・・神さまが語り人類に残されたという「聖書」(特別啓示)を読み進んでいくと、いわゆる、神さまの霊にふれるという経験をすることがあります。


そして、神さまの究極的な計画は、私たちが神さまを知り“救われること”だということがわかってきます。“救われる”ということは神さまが用意された救いの道をあゆむということです。・・・神さまは、神の御子を信じる人を(無条件に)受け入れてくださるというのです。


神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。』(ヨハネの福音書3:16)


この聖書の言葉を信じるか信じないかは私たちの自由です。でも、もし、そう信じることができれば、否、信じてみようかなと思われたら、新しい世界が開けてくるでしょう。神の福音はそのようにして世界に、私たちに伝えられてきたのですから。


文責: ロバート イー

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