主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

“救い”は、信仰によるのか善行によるのか、それとも両方必要なのか?

<ヤコブ書というのは、新約聖書の中の特異な書です>


ヤコブ書は、ルターに「藁の書」だと言われた書物です。つまり中味(実)のない殻だけの書だと言われたのです。福音(喜びの知らせ)の最も重要なことが欠けている書だと言ったのです。

Martin Luther (1529) by Lucas Cranach the Elder per Wikipedia


ルターが到達した福音の真理は「信仰のみ」でした。それなのに、このヤコブの手紙では、「行為のない信仰は、死んだものである」(2:26)と言い、「行為のない信仰では救われない」(2:14)と言い切っているのです。そして、このヤコブの主張は、ルターや使徒パウロの手紙(14通)と完全に対立するのです。


―参照―
*2:14 わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。(できない!)
*2:24 これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。
*2:26 霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。


<イエスさまは、信仰と共に行為の重要性も語りました>


「ヨハネ6:28  そこで、彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。 6:29 イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」


神のわざ、神さまが喜ばれることをするには、何をしたらいいでしょうか?と訊かれて、イエスさまは、“神がつかわされた者”(イエスさまご自身)を信じることだと答えられました。


イエスさまを神の子キリスト(救い主)と信じることが「信仰」です。すべてはここから始まるのです。


“信じる”という言葉は、動詞です。行為です。信じてひどい目にあうことは皆さん経験することですが、「信仰」とは裏切られてもかまわないという信頼なのです。


では、イエスさまは、その信仰だけでOKと言ったのですか?「マタイ7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」・・・ 、イエスさまは、決して「信仰のみ」とは言われなかったのです。


―参照―
*マタイ25:31~46も参照してください。ここに{善行}について書かれています。善行をしたものは、祝福を得、善行をしなかった者は、裁かれます。・・・


<使徒パウロも「信仰のみ」とは言っていないのです>


使徒パウロは、律法を守ることで救われるのではなく、イエス・キリストを信じる、「信仰」によって救われると言いましたが、「信仰のみ」とは言っていないのです。「信仰のみ」と言ったのは、宗教改革者のルターでした。


そのころのカソリック教会が{善行}という名目で人びとからお金をまきあげていたという状況がありました。“善行で救われるのではない”“信仰によって(しか)救われない”という真理が曲げられてしまっていました。だから、ルターは、それを正さなければならなかったのです。


―参考―
*ロマ書3章28節の【塚本訳】は、「わたし達の信ずるところでは、(すでに言ったように、)人は律法の命ずる行いに関係なく、(ただ)信仰(だけ)で、義とされるからである。」となっています。“(ただ)信仰(だけ)で”と括弧付けになっているのは、原文には、Only という言葉がないからです。


パウロも信仰に基づく行為の重要さを彼の手紙の中で力説しています。信仰だけあればいいとは言っていないのです。では、なぜ、ルターがそれほどまでに“Only”にこだわったのでしょうか?


<イエス・キリストは私たちの罪を負いました>


イエスさまは、私たちのすべての罪を負いました。私たちを無罪にしてくれたのです。すなわち、私たちの救い(無罪放免)は、イエスさまの十字架によるのです。これだけです。これ以外の何ものでもないのです。


あなたはそれを信じますか?それを信じられるかどうかが、救われるか否かの境目なのです。


十字架のあがないは完全な贖罪です。もし、私たちの救いのために、{善行}も必要というなら、この贖罪が不完全なものということになります。だから、ルターは「救われるのに信仰だけではなく善行も必要」という考えを否定したのです。


カソリック教会では、行為を重要視します。信仰的な奉仕、修練を積むことが信仰生活のかなめです。普段は、信仰に無関心だったのに、病気で死ぬ直前になってあわてて洗礼を受けるという「病床洗礼」は、“天国どろぼう”と呼ぶそうです。私は、“滑り込みセーフ”と呼びます。フィリップ・ヤンシーは、それが福音の神髄だと書いています。


救いは受け取ることです。信仰とは、Benefit of doubt(疑いがある肯定)です。つまり、“本当に”イエスさまを信じたの?ただ天国に行きたいだけなのじゃないの?・・・でも、「信じたい」は「信じた」ことに通じるのです。


そして、信じたら・・・本当に信じるようになれば、そのように行動するようになるのです。


<キリスト信仰は、観念ではないのです>


キリスト信仰は、観念ではないのです。イエスさまと共に生きることです。信仰はみ言葉を通して、私たちの肢体に及び、私たちの人格となってゆくのです。それを“聖化”と呼びます。なのに、神さまのみ心をなそうとしない自分がいることを知ります。


もし、信仰がともなわない行為が優先するなら、それは偽善になります。偽善でもしないよりいいだろう、という人もいるでしょうか。イエスさまは、そういう偽善を徹底的に嫌いました。


だから、ヤコブもこう言っています。4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。 4:9 苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。 4:10 主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。


私たちは、神さまに近づく努力をすることだというのです。そうすれば、神さまは近づいてくださる、とヤコブは言います。


ヤコブ書は、キリスト信仰がただただ神さまの恵みのなかで、安穏とすごすことではない、ということを伝えます。キリスト信仰は、努力して勝ち取ってゆく世界なのだということを示しているとも言えるのです。


いつまでも“私たちは、不完全なもの。罪びとだから”と言い訳ばかりしていないで、日々、神さまに近づく努力をするものでありたいと思います。


文責: ロバート イー

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