主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

望み得ないのに、なおも望みつつ信じた(ロマ書4:18)

<私の聖書1巻>


旧新訳聖書66巻の中で、あなたがひとつだけ選ばなければならないとしたら、どの書を選ぶでしょうか?私は、旧約聖書のヨブ記を選びます。その理由は、私がとても悲しい時に読んだ書だったというだけではなく、真っ暗い状況の中で、その先にひかり(希望)を見つけることができる書だからです。絶望な時に、どこにも希望が見いだせない時に希望を見出すことが出来る書だからです。


<是非、ヨブ記の1章~3章を読んでみてください>


ヨブという人は、神を畏れる、世にもまれな正しい人でした。そして、多くの財産を持つ富豪で、家庭も恵まれていました。それで、神さまはサタンに「サタンよ、あのヨブを見たか、潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている。」とヨブをほめるのでした。すると、サタンは「ヨブは、いたずらに神を畏れるでしょうか。神さまが彼のことを守り祝福しているからですよ、彼がその財産をすべて失ったら、神さま、あなたを呪うでしょう」というのです。


それを聞いた神さまは、サタンに彼の財産を奪っていいと言うのです。それで、サタンは、彼のすべての財産と子供たちを奪うのです。こういう神さまとサタンの話のなかで、ヨブという正しい人が “故なく” 苦しみに会うという話が面々と書かれているのです。そして、ヨブは、どうして自分はこんなに苦しまなければならないのだろうかと悩むのですね。


<ヨブは、そういう絶望のなかで光を見るのです>


《19:25 わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。19:26 わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう。19:27 しかもわたしの味方として見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる。》 


この言葉は、ヨブが苦しみの絶頂の中で語った言葉ですが、この3節の中にイエスさまの誕生が予告されており、神さまは、“味方”であると宣言しているのです。


この時のヨブは、最悪な時でした。そこに「神さまが彼の味方」であるという証拠は少しもありませんでした。それなのに、どうしてヨブは、「肉を離れて神さまに会う時、神さまを“味方”として見ることができる」と言えたのでしょうか。それは、神さまとヨブの信頼関係が状況に振り回されるものではなかったからでしょう。


<癌を病み、不安の中にいる人たちに>


知人の弟さんが喉頭癌で治療をうけているので、同じ癌を病んでいる私に励ましの言葉をかけてほしいというメールをいただきました。


私は、そういう人たちに“神さまを求めてほしい”と言います。癌は死です。私たちは、いつか皆死ぬのですが、癌は「死の使い」です。黒い服を着たとがった帽子をかぶった目しか見えない、あの「死の使者」です。


死が怖いのは、死んだらどうなるのだろうと思うからですし、絶望を感じる方もいらっしゃることでしょう。だから、嫌な癌治療をしても生き長らおうとするのですね。でも、いずれ、私たちは、死ぬのです。年終えて死ぬのです。


でも、私たちは、おびえる必要はないのです。「神の御子イエス・キリストは、私たちの罪(死)の対価を払ってくださいました。それ故、私たちは、死んでも生きるのです」。これは、神さまの言葉です。


イエスさまは、古代にヨブが予見した救い主なのです。イエスさまは、死んで3日目によみがえり、40日地上で多くの人(500人以上)と過ごし、天に昇られました(1コリント15章)。これは、歴史的事実なのです。イエスさまは、神さまを信じる私たちもよみがえるのだということを示してくださったのです。


私たちは、誰でも御子イエスキリストの贖い(十字架の死)と復活を信じれば天国に行けるのです。死は全然怖くなくなるのです。そして、残された人生をエンジョイすることができるのです。


『神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。』(ヨハネによる福音書3章:16節)


文責: ロバート イー

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