主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

神さまを信頼して待つ「成り行きがはっきりするまでじっとしていなさい」(再アップ)

<ヘブル語の魅力>


ご存知の方も多いと思いますが、北海道にある空知太栄光キリスト教会の銘形秀則牧師(Meigata Hidenori)が聖書箇所をヘブル語で説明されています。
銘形先生は、私のような求学の徒にもわかりやすく教えて下さいます。先生の書かれたものを礼拝などで参照しても差し支えないかとメールでお伺いしましたら、メールで快諾していただきました。(銘形先生のURLは、https://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?FrontPage


私は、こういうヘブル語の活字をみると、嬉しくなります。字と字の間に神さまのみ心が読めるように感じるからです。ギリシャ語は、ついつい論理的な理解に導かれますが、ヘブル語は、私たちの感性に訴えるように感じるのは、わたしだけでしょうか。


<成り行きがはっきりするまで、じっとしていなさい(新共同訳)>


この”待つ”というヘブル語には、住む、座る、待つと言う意味があります。口語訳・新改訳は、待ちなさいと訳していますが、新共同訳聖書では、“じっとしていなさい”と訳しています。動くな、何もするなというところに重点をおいています。

この「成り行きがはっきりするまで、じっとしていなさい」という言葉の中に、“心をみださず、主に信頼しなさい”という意味が込められていると思います。


この時は、モアブの地からエルサレムにもどってきた、ナオミと息子の嫁、ルツがこれからどうやって生活をしていけるかという重大な時でした。親戚のボアズがルツの亡き夫マフロンの嗣業を買い戻してくれたらという期待と不安の中にいたのです。


<神さまを信頼し待つ>


私たちは、誰でも自分自身の人生を築いていかなければなりません。自分でしなければならないことを責任をもってタイムリーにしなければなりません。そして、そういう人生には、節目があります。その節目々々に“神さまを信頼して待つ”という時があります。


中野雄一郎先生は、「人事を尽くして天命を待つ」のではない。「天命に安んじて、人事を尽くす」なのだと仰いました。


この言葉は、先生の大先輩の(無教会主義の)塩田彰先生の言葉だったそうですが、“天命に安んじて”ということは大切なことです。神さまへの信頼があれば、どんな緊急な時でも“安んじている”ことができるというのです。


<ルツ記の主題はなにか>


このルツ記を煮詰めると、神さまの“摂理”ということが見えてきます。即ち、ルツというモアブの女性がボアズという人に買い取られて、男子オベデをもうけます。そして、オベデからエッサイが生まれ、エッサイからダビデ(王)が生まれます。そして、後々に、救い主イエスさまが生まれるのです。


救い主(メシア)がダビデの家系から生まれるというのは旧約聖書に預言されていましたが、それ以上に、イスラエルの民は、その救い主を待ちこがれていたのです。それで、マタイの福音書(新約聖書の冒頭)には、イエスさまの系図が書かれています。


でも、(この時)ルツもナオミも、そのことを知りません。ボアズがルツを買い取ってくれて、ナオミとルツがエルサレムで生活することが出来るようになるかどうかが、それだけがふたりの緊急課題でした。でも、それはミクロの世界です。マクロの世界では、神さまの大いなる御手が動いていたということです。


私たちは、毎日、目先のことに関わっているので、神さまの導きに気がつかないことがよくあります。だから、私たちは、大きく深呼吸をして、その御手を意識し、認識し、“主に信頼して”人生を歩んで行くことができれば幸いと思います。


主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。・・・ 」(詩篇23篇)


ロバート・イー


10/24/202010/25/2020▶︎ 主とわたし・・
Posted by SANBI.us

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