主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

聖母マリアよ、わたしの叫びを聴いてください



Pavarotti & Clapton Holy Mother For War Child 1996


{歌詞を訳しました}


聖母さま、どこにいるのですか?
今夜、私は2つにへし折れてしまったように感じます
私は星がみんな空から落ちるのを見ました
聖母さま、涙が止まりません


ああ、今度は(どうしても)あなたの助けが必要です
この孤独な夜を乗り越えさせてください
教えてください、どっちの方に行けばいいのですか
もう一度自分を見つけるために


聖母さま、私の祈りを聞いてください
どういうわけか私はあなたがまだそこにいることを知っています
送ってください、いくらかの平安を与えてください
この痛みを取り除いてください


待ちきれない (待ちきれません)
待ちきれない (待ちきれません)
もう 待ちきれない (待ちきれません)


聖母さま、私の祈りを聞いてください
私はあなたの名前を千回も呪いました
私の魂に怒りが走るのを感じました
私に必要なのはあなたの手にすがることだけです
ああ、終わり時が来たような気がします


私の足はもう動きません
あなたは知っているでしょう、私は
今夜、あなたの腕のなかにいたいのです
私の手が奏でることなく
私の声がやむ時、私は消えていくのです
聖母さま、その時、私は
あなたの腕のなかで安らかに身を横たえるのです


<聖母マリアへの叫び>


この歌は、聖母マリアへの叫びです。この歌の作詞・作曲者、エリック・クラプトンの叫びです。(正確には、エリック・クラプトンとステファン・ビショプの共作だというのですが)


クラプトンは、よく自分が体験したことをそのまま歌にする人です。あの 「Tears in Heaven」 は、NYのアパートから転落死した4才の息子にささげる追悼歌でした。


クラプトンは、苦しいアルコール中毒症の治療中に、その苦しみの中で神さまに出会いクリスチャンになったとどこかで読んだことがあるのですが、・・・ この歌では、“イエスさま!”と叫ばないで、“聖母マリアよ”と叫んでいるのです。もし、“イエスさま”って呼んでいたら、ゴスペルソングになっていたでしょうか?・・・でも、そうしなかった。・・・


どうしてなのかな~とずうっと考えていました。いわゆる福音派のクリスチャンは、マリア信仰を認めないのです。アヴェ・マリアなども聴かないのです。・・・


一般的な歌にしたいと思ったのだろうとは思います。いろんな宗教的な背景の人々に共感を与えたいという想いがあったのかもしれません。・・・人間としての共通の苦しみ・痛みのなかで、助けを求める歌ですね。


*** ***


さて、みなさん。・・・みなさんは、このクラプトンの歌をどのように聞いたのでしょうか?私には、この歌が “お母~さん!お母~さん、どこにいるの~!”って、迷子になった子供のようにマリアさんを呼んでいるように思えたのです。


そして、(お母さんが見あたらない)クラプトンは、ついにマリヤさんに怒りをぶっつけるようになります。


I've cursed your name a thousand times  私はあなたの名前を千回も呪いました
I've felt the anger running through my soul  私の魂に怒りが走るのを感じました
All I need is a hand to hold  私に必要なのはあなたの手にすがることだけです
Oh, I feel the end has come  ああ、終わり時が来たような気がします


<実際、私たちと神さまとの距離ははてしなく遠いんです>


私たち人間と神さまの距離は無限に離れているのです。神さまは私たちに近づいてくださるけど、私たち人間が神さまのところに気やすくいくことができないのです。神さまの峻厳さは測りがたいのです。


神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。』 (ローマ人への手紙11章22節)


ちなみに、その計り知れない神さまの神聖さを伝えてきたのがカソリック教会ですが、教会そのものが神さまの権威を誇示するようにもなりました。そして、宗教改革が起こり、信徒は教会の束縛から自由になると同時に、神さまの峻厳さを見失う危険性も出てきたのだと思わされています。


<聖母マリアはどんなつまらないことでも聞いてくれる>


ヨハネによる福音書2章で、イエスさまは最初のしるし(奇跡)をなされます。イエスさまは、水を葡萄酒に変えたのです。


(結婚式の助けに来ていた)イエスさまの母マリアがイエスさまに「ぶどう酒がなくなってしまいました」と告げました。そしたら、 イエスさまは、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」と答えるのです。


何かとても冷たい対応のように聞こえます。(実際、私はそう読みました。)・・・ でも、これは、“私にまかせてください”という意味なのだそうです。この“婦人(グナイ)よ“という言葉も尊敬した表現なのだそうです。・・・だから、母マリアは(すぐに)僕たちに「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」と言うのです。


イエスさまは僕たちに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われました。彼らは口のところまでいっぱいに入れました。そしたら、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」とおっしゃいました。その時、その水は葡萄酒になっていたのです。


これがイエスさまの初めての奇跡だったいうのですが、母マリアは、どうしてイエスさまがこのような超能力を持っていると知っていたのでしょうか?勿論、イエスさまが普通の人じゃないということは知っていました。そして、葡萄酒がなくなったという状態をイエスさまに取り次いでくれたのです。


マリア信仰は、ここだと思います。毎日の日頃のつまらない悩みを打ち明けても文句も言わずに聞いてくれるお母さんがマリアさんなんですね。今日食べるものがありません。電車に乗り遅れてしまいました。悲しいんです。困っているんです。なんでもマリアさんに自分の問題をもっていくことができるのですね。


マリアさんがちゃんとイエスさまの所に持っいってくれるのです。だって、マリアさんはみんなのお母さんなんですから。


*** ***


一方、私たち「聖霊」の助けを信じるものは、神さまに直接呼びかけます。 “主よ、イエスさま、神さま!”って。 この歌のように怒りをぶっつけることさえあるのです。でも、大丈夫、神さまはすべてを御存じですから。・・・ 神様の方から私を探し出してくださいます。私たちは日々それを経験しているのです。


夜、初更(しょこう)に起きて叫べ。主の前にあなたの心を水のように注ぎ出せ。町のかどで、飢えて/息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ。』(哀歌 2:19)


文責: ロバート イー

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