主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

聖書とは何か、なぜ聖書を読むのか(最も基本的な質問)

<聖書とは何か>


聖書と言われる書物は、古いいろいろな形の書物です。そして、その中に神さまからのメッセージが書かれているものと考えられているものです。それを、太古からユダヤ人が書き残されてきたものです。手書きで書き写し続けられて、そのままの原文が伝えられてきたのです。それが「写本」と呼ばれるものです。


残された写本は、ヘブル語でかかれた旧約聖書とギリシャ語でかかれた新約聖書があります。(その旧約聖書のギリシャ語訳は、70人訳と言われます。)旧約聖書のヘブル語は古いヘブル語で“死語”(今は使われていない言葉)が含まれているので、現代のユダヤ人も(勉強しないと)読めないそうです。新約聖書のギリシャ語も現代のギリシャ語と違うので、私の心臓のお医者さんはギリシャ人で家ではギリシャ語を使う人ですが、聖書が読めません。クリスチャンじゃないみたいです。


いずれにしても、底本(訳された元の本)のオリジナルは、写本ということになります。


旧約聖書は天地創造神(アドナイ、エホバ、ヤーウエイ)が語られたことや預言者によって伝えられたものなど39の書物が“旧約聖書”として公認されています。新約聖書は、神の御子(イエス・キリスト)の宣教と教えと弟子たちの証言としての手紙などが残されています。“新約聖書”として公認された文書は27で、旧新あわせて66巻が正式に “聖書” と呼ばれています。


蛇足ですが、イエス・キリストと呼ばれた人とその弟子たちは、アラム語を使っていたそうで、新約聖書のところどころにアラム語が出てきますが、ほとんどがギリシャ語で書かれています。それは、新約聖書が書かれた時代の世界共通語がコイネー(共通)ギリシャ語だったからということです。著者のルカやパウロはギリシャ語ができたのですが、他の弟子たちは、通訳者を通して書き残したものと考えられます。


(死海写本)

{原語のサンプル}


・旧約聖書の最初の言葉:「はじめに神は天と地とを創造された。」(口語訳、創世記1章1節) 

 地(冠詞)(目的)と 天(冠詞)(目的)神は 創造する はじめに(前置詞)
<―― 右から左に読む


・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・


・新約聖書、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネによる福音書1章1節)


(前)初めに ある(冠)言葉、そして(冠)言葉は ある 共に(冠)神、そして 神は ある(冠)言葉


このように単語をひろっていくと内容がわかりますが、このヘブル語またはギリシャ語には、もう使われていない古い言葉が多いので、それをいかに正確にそれぞれの国の言語に訳すかは、大変な作業で聖書学者が苦労するわけです。それに時代背景、文化背景も配慮して訳す必要があるところもあるのです。


でも、聖書の基本は、意訳ではなく字義的に忠実に訳すことです。ですが、現代人にわかりやすいように訳されているのもあり、意訳で代表的なものはリビングバイブルですが、これには訳者の解釈が含まれています。


聖書は、読んですぐわかる部分となかなかわからない部分があります。また、読んでいて文字の意味以上に深い意味が含まれている場合もあります。そういう意味でいつまでも読みつづけることができる書物です。


<何のために聖書を読むのか>


聖書を読めば世界・宇宙、すべてがわかるようになると言われましたが、そんなことはありませんでした。でも、神さまのみ心はわかってきたと思います。私にとっては、聖書は神さまからのメッセージです。感動で胸がいっぱいになって涙することもあります。だから、それだから、聖書は読みつがれているのです。


それなのに、聖書の読み方しだいで対立が起こってくるのです。どうして、そんな読み方ができるのかと不思議に思われることがあります。でも、そのような指導をする先生方がいるし、そういう一定な考え方(神学)をおしつける神学校さえあるのです。いわゆる Doctrine(固定した信条)です。


現実にアメリカでは、この聖書の読み方で、Conservative(保守派)と Liberal(リベラル)が真っ二つに分かれて対立しているのです。トランプ前大統領は、保守派に取り込んで多くのクリスチャンを味方につけました。「トランプは悪党だけど、クリスチャンのために戦ってくれるからサポートするのだ」と平気で話す人がいるのです。


クリスチャンのために働いてくれるなら悪党でもいいと聖書のどこに書いてあるのでしょうか?イエスさまは、似たようなことを言われたことがありますが、“悪党”を支持しろと言われたことはありません。


読み方の違いと言いましたが、より正確な言い方をすれば、聖書の言葉のApplication(応用・適用)の違いですね。み言葉をいかに現実の生活に適応していくかは、私と神さまの間で決定していくことで、他の人が口を出すものではないと(私には)示されています。


カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」という言葉は、イエスさまの有名な言葉ですが、信仰と政治を混同しないことです。信仰者はその信条にしたがって生きているわけですが、自分たちの都合のいいように政治的な画策をすることを主イエスは教えられていません。


私たち信仰者は、現実の社会に生きていますが、神さまにコミットして(身ささげて)生きているのです。姑息な策略をすることは必要ないのです。勿論、現実離れをした生活をしろとも言っていないのです。


3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。 3:17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。』(第二テモテ3:16~17)


聖書はすべてを完全に網羅したものではありません。でも、私たち人間を導き整えるのに十分な書物だというのです。書かれたものをそのまま受け取るなら対立も起こらないはずです。理解しにくいところを無理やりつくろうようなことをしなければいいのです。わからないところやあやふやなところは、わからせてくださるまで待つしかないのです。


文責: ロバート イー


(注:いろんな文献、インターネット情報などを参照していますが、これは違うと思われる方がいらっしゃいましたらご連絡ください。修正させていただきます。)

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