主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

キリスト教会で言う「救われる」とか「交わり」ということについて(完)

(聖書では「喜び」という字が使われていますが、時には“歓声をあげたくなる”という「歓び」を使いたい)


<“救い”は神さまの「招きに応じる」ことから始まります>


22:2 「天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。 22:3 王はその僕たちをつかわして、この婚宴に招かれていた人たちを呼ばせたが、その人たちはこようとはしなかった。・・・ 22:10 そこで、僕たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった。』(マタイ伝22章2~10節)


“救い”の条件は、信仰ですと言いました。でも、「信じる」前に「招きに応じる」ということが必要だというのです。・・・そして、このイエスさまの話には続きがあります。


22:11 王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに<礼服>をつけていないひとりの人を見て、 22:12 彼に言った、『友よ、どうしてあなたは<礼服>をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。 22:13 そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。 22:14 招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(11~14節)


私には、この<礼服>の意味がよくわかりませんでした。でも、他の聖書箇所に“キリストを着る”と書かれているところがあって、そこから、ようやく<礼服>とは、”イエス・キリストによる救い”のことだなということがわかってきたのです。


すなわち、神さまは、すべての人を招いてくださり、その入り口で<礼服>を着させてくださるという。でも、着せてもらった人たちは、誰もその礼服のためにどんな犠牲が払われたのかわからないでいるのです。


<洗礼とは>


招かれて、イエスさまによる救いについて聴き、イエスさまを信じたいと思うようになると洗礼という話になります。洗礼とは、水槽のなかに沈められる(浸礼)か、水滴を頭に垂らされる(滴礼)という儀式ですが、それは「死んで新たに生まれる」ということの象徴的儀式です。本当に(実際に)生まれ変わるのだと考える方々はこの“象徴”という表現を嫌います。


教会によっては、受洗の前に「罪の告白」というのをさせるところがあります。が、牧師先生方の中には、受洗前の「罪の告白」は必要がない「信じたい、信じます」という言葉を聞けば “それで充分” と考える方もいます。


私もそのひとりですが、その理由は、(聖書の中に)「罪の告白」が受洗の条件だと書かれてはいないと理解しているからです。つまり、神さまの交わりに入る時も、受洗する時も いわゆる 「罪の告白」というのが必要だとは聖書に書かれていないと理解しているからです。


洗礼は(新たな気持ちで)神さまに従っていくという宣言なのだ。だから、これまでの罪を告白して赦される必要があると考えるのは筋がとおっているように思えるのですが、洗礼とは、それまでの自分が死んで、イエスと共に生きかえる。新たな自分になるということです。それまでの自分は死んで葬られたのです。(ロマ書6:4)。


わたしたちは、新たに生まれるのです。死んで葬られた者の罪を告白して何になるのですか?新しく生まれるということは、(本来)過去をひきずらないということです。


でも、洗礼を受けた人が借金している人に「私は新しく生まれました。あなたに借金した人は死んでしまいました。だから、もうお金を返しません」とは言えません。が、25年前に本を盗んだからと本屋さんに本代を差し出しても本屋さんは困ってしまいます。


それより、私が心配するのは、「告白した」から「代金を払おうとした」から、過去の罪が清算されたと思うことです。(聖書がさし示す人の罪は、神さまに対する罪です。)


再度、明確にしたいことは、私たちが無条件で招かれ、神さまとの交わりに加わることができたということです。罪を負ったままで交わりに加わったのです。(何もわからずに)礼服を着させていただいたのです。


<旧約の時代は“罪との闘い”でしたが、新約の時代は“罪の克服”です。>


59:1 見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。 59:2 ただ、あなたがたの不義が/あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が/主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。』(イザヤ書の59章1節)


神さまは、罪を嫌います。徹底的に嫌います。罪を取り除かなければ、神さまと交わることができないのです。そうなのです。それだから、そのために、イエスさまは十字架で苦しんだのだ、その罪の償いをしてくださったのだ、と聖書に書かれているのです。


それでは、ヨハネの第一の手紙1章9~10節に書かれていることは、どういう意味なんだと言う疑問が起こります。『 1:9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。 1:10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。』です。


この箇所は、「罪の告白」の勧めです。ですが、神さまイエスさまとの交わりを妨げるものは罪であり、“悔い改め”なければ神さまと交わることができないと語っているのでしょうか?


(*ちなみに「悔い改め=方向転換」と「罪の告白=罪を言い表す」は、全く違う意味の言葉です。)


<イエスさまは、罪びとと食事をしました>


律法学者やパリサイ派の人々は、イエスさまが当時罪びとと言われる人たちと食事をしたのが気にいりませんでした。その時、イエスさまは「医者を必要としているのは、病人です。私は義人を招くためでなく罪びとを招くために来たのだ」と語られました。


「救い」というのは、神さまからの招待から始まると言いました。悪人も善人もみな招かれたのです。“救い”というのは、入学試験をして学校にはいるようなものではないのです。それが、“今は恵の時だ”といわれるゆえんです。・・・それなのに、罪を告白して、赦されてはじめて主の交わりに加わることができると言うのはおかしいのです。そういう考えは、Self-righteousness=「“自分の正しさ”の主張」につながるのです。・・・救いは神さまからの(一方的な)恵みだと書かれています。自分の働きではないのです(エペソ書2章8節)


イザヤ書の「神さまとの交わりを妨げる罪」は、イエスさまの「十字架の贖い」によって処分されているのです。(過去完了)なのです。それを「和解」といいます。私たち罪人のすべての罪は 過去・現在・未来 にわたって贖われるのです。それが“福音”(良い知らせ)です。(ロマ書5章10節)


スピード違反でチケットをもらい$650の罰金をはらいに行ったら、誰かがはらってくれていて、もう払わないでいいと言われたというようなものです。何もしていないのに無罪放免になったのです。でも、犯罪歴は消えていないのです。だから、私たちは皆「赦された罪人」なのです。


ではなぜ、ヨハネは「罪の告白と赦し」について書いたのですか?・・・それは、罪をおかし続けている‟私”のためなのです。罪を犯している私の心に「神さまに近づくことができない」「すべてを見通される神さまに見捨てられる」と(ひそかに)恐れおののいている。そんな私のために語られているのです。つまり、罪を隠しもっている人は、主とともに生きるという“歓び”をうしなってしまいます。


<Come clean=神様の前ですっかり正直になること>


クリスチャンになって、しばらくすると自分がいかに罪人であるかと示されます。私がそうでした。聖められると聞きましたが、聖められていない自分がいるのです。どうすればいいんでしょうか、イスカリオテのユダのように首をくくって死んでしまった方がいいのでしょうか。


イエスさまを裏切ったあのイスカリオテのユダは、自分の犯した罪の大きさを知り、悔いて自殺しました。でも、自殺しても、その罪は解決されません。


だから、私たちが主イエスの前に出て、その罪を告白するなら、それが、どんな罪であろうとも、主イエスは赦してくださるというのです。これは、救いの言葉、恵みの言葉なのです。救いの条件じゃない、交わりの条件じゃないのです。・・・神の赦しなのです、一方的な恵みなのです。・・・それが「恵み」か「条件」なのか、その違いは雲泥の差となります。


ヨハネのこの手紙は信者に宛てて書かれています。その目的は、私たちの喜び、歓びが満ち溢れるためでした。私たちは、罪を犯し続けるのではなく、そこから抜け出て光のうちに歩むようになるためです。


罪の問題は、神さまと私の問題です。極めて深刻なプライベートな問題なのです。イエスさまは、「お前、そんなところで何をしている、中に入りなさい」とイエスさまが声をかけてくれるんです。神さまと Personal に Come clean になれば、もう何も怖れることはないのです。すべてを正直に明かし赦される、無罪放免になる。・・・そこに「あの喜び、あの歓び」があるのです。神様の愛はすべての罪を被いつつんで破棄してくださるのです。


もし、教会が「罪の告白」を強要し、条件化すれば、あの喜びや自由さは消えてなくなります。卑屈なクリスチャンになってしまうか、裁きあうクリスチャンになるか、はては罪に無頓着になってしまうのです。・・・だから、礼拝で形式的に「罪の告白」という文を読ませたり、信者に自分の罪の告白をさせるのは、かえって本来の ”悔い改め” の意味を見失わせてしまうと(私は)思うのです。


もし「原罪」という概念を使うなら、それは、神さまの意向に反抗する意志です。そこからさまざまな犯罪が起こってきます。怒りや憎みや妬みから殺人が起こります。もし、怒りや憎みや妬みが人を殺したことと同じだとしたら、私は、今までに何人の人を殺したことになるのでしょうか。・・・ でも、そんな自分でも大丈夫、今週も礼拝で(みんなで)「罪の告白」をしたから、・・・なんと安易で浅薄な考えじゃないでしょうか?


(* カソリック教会の「告白室での告白と赦し」は、よく考えられたシステムだと思います。どんな罪も告白し赦しを乞い、祭司は神さまの代理として赦しを与えるのです。信者は、“赦された”という体験をすることができます。)


神さまと交わるとは、神さまの聖さに触れることです。その時、己の悪が残らず明らかにされるのです。旧約時代は、神聖なものに近づくことは死を意味しました。・・・そのためにもイエスさまは死んでくださったのです。(ヘブル人への手紙を参照)


だから、ヨハネは「罪の告白」を勧めたこの手紙のクライマックスに「神さまは愛そのものです」と宣言しているのです。「神は愛です!」それだからこそ、私たちは(恐れずに)神さまの前に出て赦しを乞うことができるのです。神さまは、大いなるお方。どんなひどい罪でも(人前ではとても告白できない心の奥底の罪さえ)赦されるのです。神さまは、その罪を赦し、完璧に取り去ってくださるというのです。・・・


だから、私たちは、たえず赦され、たえず改めながら、主と共に(歓びにあふれて)生きることができるのです。


4:16 わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。 4:17 わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。 4:18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。』(第一ヨハネ4章16~18節)


文責: ロバート イー

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