主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

キリスト教会で言う「救われる」とか「交わり」ということについて(その2)

<“救い”の確信が私たちの人生を変えるのです>


“救い”とは何か?自分は(はたして)救われているのかということを確認するということほど重要なことはないと思っています。・・・なぜなら、(聖書の言う)「喜び・歓び」というのは、そこから来るからです。


5:10 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。」(ローマ人への手紙5:10)


2:8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」(エペソ人への手紙2章8節)


聖書には、“救い”は神さまのご計画だと書いてあるのです。私たちの努力(精進)によるのではない。


それで、前回「・・・“救い”に関しては、神さまがちゃんと計画されている・・・そして、人には、自分の自由意志で神さまのところに戻るかどうかというチョイスが与えられているのです。」と書きました。


<私は確信がほしかった>


神の実存、救い(イエスの贖罪)、神の国、教会の交わりなどについて、私は合理的なReasonableな納得が欲しかったのです。逆に言えば、納得しなければ“信じない”、否、“信じるべきじゃない”という姿勢を保っていたのです。


ところが、「神さまの愛」という大いなる力に私がおおわれる時、清水寺の舞台から飛び降りることを可能にさせたのです。そして、私は、(これが本当なら)“信じたい”と思いました。そして、“信じます”と言って受洗しました。・・・


そして、毎年々々、少しづつ信仰を増してきて50年です。・・・50年、神さまを信じ(続け)させていただいたのです。・・・よく横道にそれなかったものだとつくづく思います。そして、その間、こんなわがままなものを神さまは苦労して導いてくれたことがよくわかるのです。


心臓麻痺(心筋梗塞)で死にそうになりました。それで、休んでいた神学校を卒業したいという思いが起こり、神学校を卒業しました。そうしたら、毎月一度教会でメッセージをしなさいと言われたので、働きながらもがんばりました。


4年後、娘家族をヘルプしようと、ロサンゼルスに戻ってきて、まもなく肺がんが見つかりました。つらいがん治療をしました。この時に、死ぬということ、否、生きるということを学ばせていただきました。


私が死にゆく人たちに洗礼をさずけたいと思っていたところ、はからずも按手礼を受けさせていただきました。そしたら、その翌日に私から洗礼を受けたいという人が現れたのです。その人は、今に死にそうな人ではありませんでした。こんな私から洗礼をうけたいという奇特な人たちがいるんですね。信じられないことです。


すべては、神さまが備えられたことです。私の人生のすべては・・・その祝福は、母の胎内に私の小さな命が生じたあの日からではなく、母の母、その母の母、その母の母とさか登れば・・・神が光あれといったあの日までさかのぼることができるのです。それが“神さまの祝福”と言われることなのです。


誰でも、この「神さまの愛」にふれれば、何も怖くなくなるのです。


8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、 8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ人への手紙8章38~39節)


文責: ロバート イー

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