主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

キリスト教会で言う「救われる」とか「交わり」ということについて(その1)


<“教会”は建物ではないという>


けれど、私たちの「教会」のイメージとしては、“建物”を想像します。屋根の上に十字架があれば、キリスト教会の会堂です。ヨーロッパに行けば教会だらけで、天にそびえるゴチック建築を見ることができます。私は、仕事でドイツのフランクフルト近辺とドイツとフランスとの国境に行くことがあっただけですが、何百年もかかって建造されたものはすごいですね。


でも、「神の教会」(ギ:エクレーシア)という言葉は、もともとは、招集されたギリシャの市民の集まりを意味し、聖書では、神さまに召し出された者たち(信者たち)の集まりをさしています。たまたま教会堂に集まった人たちのことをさしているのではなく、神さまを信じ、神さまとつながっている人たちの集まりを教会というのです。ですから、どこでも信者が数人集まれば“教会”になるのです。


では、「交わり」(ギ:コイノニア)とは何か、それは、商売関係から夫婦関係などの広範囲にわたる人間関係について用いられる言葉だったそうですが、聖書では、神さまと人との親密な関係、または信者同士の親密な関係を表す言葉として使われています。信仰は関係です。神さまを知り神さまと共に生きるということからコイノニアは始まるのです。


それでは、「救い」(ギ:ソーテーリア)とは何かということですが、もともとのヘブル語の救いは肉体的な健康のことだったそうですが、ギリシャ語に訳されてからは、肉体的な健康についてだけではなく、精神的霊的な面における“救い”についても用いられるようになりました。ですから、”救い“とは、人間存在のすべての面における、すべての苦難からの“救い”であり、最終的には、神の国の約束にいたるのだと言うことができます。


使徒行伝4章12節の「この人(イエス)による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」が、聖書における最終的な「救いの宣言」となります。


(*聖書で使われているギリシャ語の単語の説明は、「新約聖書ギリシャ語精解 W. バークレー」(日本基督教団出版局)などを参照しています。)


<「きよめ」について>


求道者が教会にみえると、教会の人びと(牧師も含めて)は、「そのままでいいんですよ。神さまは、ありのままの姿のあなたを受け入れてくださいます。」と言って歓迎してくれます。


で、その教会に来るようになり洗礼を受けてクリスチャンになったら、(とたんに)“そのままじゃダメ”と言われる。こんなのって“だまし討ち”じゃないですか?


私が洗礼を受けたホーリネス教会は、「きよめ」の教えが第一でしたので、救われて終わりではない、救われてから“聖(きよ)められる”ことが大切だと(最初から)言われていたので、“だまし討ち”にはならなかったのですが、なかなか言われたように“聖められない”ので困りました。悩みました。


聖潔(きよめ)とは、聖霊(三位一体の神)の働きで、私たちの(肉体・精神・霊)を神さまのみ姿のように変えてくださるというのです。これは、自分の努力によるのではないのですが、聖霊さまが十分に働けれるように自分も協力する必要があります。(これがずいぶんと難しい。)


でも、私が天使のようになったら、みんな驚くだろうな(へっへっへ)・・・笑いごとじゃないけど。


<神さまか人か、誰がイニシャティブをとるのか>


人の人生では、誰がイニシャティブ(主導権)をとっているのか?という問題は、神学においてとても重要なことです。皆さんにもいろいろな意見があると思いますが、私が聖書を読んだ結論は、(はからずも)カルビンと同じなのです。つまり、神さまから始まって神さまで終わるのです。


つまり、神さまは人を“自由意志”をもつ者として創った(創世記2章)。ところが、人は、(自ら)禁断の実を食べて“知恵”を得、死ぬ(滅びる)者となりました。人は、さんざん罪(神さまの嫌いなこと)を犯して裁かれます。神さまは、40日40夜雨を降らして大洪水を起こし、ノアの家族(8人)以外のすべての人は死んでゆきます。そのノアの子セム・ハム・ヤペテから再び人類が全世界に広がっていきます。


神さまは、セム族の中から“アブラム(アブラハム)”を選び、預言者を送り(律法を通して)人類の救いを計画されましたが、それは必ずしも成功しませんでした。そして、最終的に、そのアブラハムの子孫(ダビデの子孫)として、御子イエス・キリストがベツレヘムに生まれるのです。


ところがこのイエスは、約3年間、神の国についての宣教をした後、十字架の刑で死に、3日目によみがえり、40日この地で過ごした後に天に昇られたのです。そして、10日後、聖霊が下り、キリスト教会が誕生します。・・・そして、この「教会」を通して、“イエス・キリストの福音(救い)”が全世界に宣べ伝えられるようになったのです。


人は自由を得て、自分の好きな自分勝手な世界を作ろうとしているわけですが、“救い”に関しては、神さまがちゃんと計画されているのです。そして、人には、自分の自由意志で神さまのところに戻るかどうかというチョイスが与えられているのです。


神さまは、人とmeaningfulな関係、内容のある楽しい嬉しい関係を持ちたいと思っているのです。それがコイノニア(交わり)です。“この交わり”こそ(言葉では言い表せない)至福の関係なのだというのです。


1:3 すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。 1:4 これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。』(第一ヨハネ1章3~4節)


文責: ロバート イー

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