主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

松田和彦(マイク)先生の涙に負けた日々を思いだします


<松田先生の神髄は、“真実”だった> 


ロサンゼルスホーリネス教会の青年部(友愛会)を指導してくださった松田先生が7月18日に天に召されました。松田先生ご夫妻は、私たち青年たちを心からサポートし、育ててくださったお方でした。


でも、先生を本当に理解していた人がどのくらいいただろうかと思うのです。先生は、日本のナザレンの神学校を卒業し、アメリカに来て、アメリカの神学校を中途でやめて一般の社会人として働いていた方でした。


先生の話しかたは、3段論法で“こうだ”という、いわゆる説得力のある方ではありませんでした。ある人は、はっきりしないと文句をいう人もいたのですが、でも、私は、一度も先生のクオリテイー(価値)を疑ったことはありませんでした。


みんなが右と言っている時に、“いや、もしかしたら左かもしれない”ということができた人だったのです。私は、自分が自信をもって言っていた時に先生にそんなことをされても不思議に腹をたてることがありませんでした。先生は、どこまでも真実なお方だったからです。先生は、神さまに真実であり、私たち一人ひとりにたいしてもそうだったのです、


<先生の笑顔がかがやいた>


私が神さまを信じてみたいと思わされていた頃、私たちは、どういうわけか、よくぎりぎりに教会に行きました。時には、少し遅れていった時など、司会の松田先生が教壇から降りる時に、私たちがバルコニーの席に着くというような時がありました。私たちが入ってきたのを見上げて、“あっ、よく来たね!”というように先生の大きな目が喜ぶのです。これは、先生と私の合図でした。“はい、来ましたよ、遅れたけど”みたいな。


私は、先生と正反対で、論理的に納得しなければ、一ミリも動かないという者でした。当時のホーリネス教会は、(今はだいぶ変わりましたが)体験主義で、論理はどうでもいいというところがあって、祈りなさい、神さまにすべてを任せなさいと言われても、どう祈ればいいの、本当に神さまはいるの、だまされているのじゃないのという質問に答えるひとは一人もいなかったのです。


<イエスという人は誰なのか>


今週のLAホーリネス教会での礼拝で、高木先生は、ヨハネ伝からイエスさまの7つの宣言のひとつ「命のパン」というところからお話をしてくださいました。“あなた方が私を追い求めているのは、パンをたべてお腹がいっぱいになったからですね”とイエスさまはおっしゃった。すなわち、“私に自分たちの必要をかなえてもらいたいからなのでしょう”とおっしゃったのです。いわゆる御利益宗教です。・・・イエスさまは、そういう人たちに、私自身が「命のパン」です、と言われたのです。


6:35 イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。 6:36 しかし、あなたがたに言ったが、あなたがたはわたしを見たのに信じようとはしない。」(ヨハネの福音書6章35~36節)


高木先生は、簡潔に“何かしてもらいたいからイエスさまを求めるのでなく、イエスさまご自身を(救い主として)信じなさい”とわかりやすくお話をしてくださいました。そのお話を聴きながら、私が昔松田先生にくってかかったことを思いだしていたのです。


<イエスさまが神の御子だというのがわかりません>


どういう経緯だったのか覚えていないのですが、松田先生に「私には、イエスさまが神の御子だということがわかりません」と言っていました。「この人が神だって言うけど、三位一体というけど、不完全で欠点だらけの人間が神の子であると言うのは無理な論理です」「先生だって、マイケル(先生の子)がいじめられるのを見たら、いじめている子を憎むでしょう。人間ってそんなものです・・・」と言って、松田先生を見上げたら、先生の大きな目にじんわりと涙がうかんできたのです。それを見ていたら、・・・たまらなくなって私は下を向いてしまったのです。


私は、(松田先生のその、滲んでくる涙をみていたら)わけもなく申し訳なくなって(自分も)泣きたくなってきたのです。


後でわかったことですが、これ、松田先生がよくやることだったんですね・・・涙をためるの。特に、説明できない領域に入ると先生個人の体験そのものからじんわりと目にでてくるんです。でも、“それで、だまされちゃダメだ”と思ったことはないんです。なぜって、、、先生は真実なお方だからです。


<イエスが神の御子だと知った人たち>


イエスさまの弟子たちは、3年間もイエスさまと共に生活してきました。それで、イエスさまがすごい人だとはわかっていたけど、神の御子だったと知っていたでしょうか?


“あなた方は私のことを誰だと言うか?”というイエスさまの問いに、ペテロは(はからずも)「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えるのですが、これがキリスト教会の土台なのですが、その「神の子」とは何かという人たちが出てきたのです。・・・文字通り“神の子”なのか“神の子のような人”という意味なのかという議論になりました。


この問題が紀元325年のニケア会議でとりあげられ、喧々囂々(けんけんごうごう)のさわぎになったと言われます。ホモウーシオス(同質)なのか、ホモウーシオス(類似)なのかという論争でした。ギリシャ語の一番ちいさな 文字 “ i ”(イオタ)が入っているかいなかの違いです。


弟子たちは、みんなユダヤ人です。神は唯一なのです。それ以外のいなかるものをも“神”と呼んではならないという戒めを叩き込まれているのです。(今でも)ユダヤ教徒やイスラム教徒は、この戒めを厳重に守っています。


イエスの弟子たちは、復活したイエスさまに会いました、昇天を目撃しました、聖霊の降臨を体験しました。これで、イエスの神性を疑うものはなくなったと思います。すごい能力をもった“人間”から(礼拝の対象となる)“神”への昇格です。


あのパウロも、イエスを神の子と信じるものをとらえて牢にぶち込んでいた者なのに、ダマスコの途上でイエスに出会い、「このイエスこそ神の子だ」と告白するに至ったのです。


でも、現代の私たちにとっては、イエスさまは昔々の歴史の人です。聖書で読む人です。この人が神の御子だとどうして信じることができるのでしょうか?・・・ところが、それが、できるのです。それは、まさに、聖霊の働きです。そして、その方たちは、説明できずにただ涙ぐむのです。信仰は論理ではないのです。論証でもないのです。理解するということと信じるということは同じではないのです。


イエスさまを「救い主」だと信じることはわりあいたやすいと思いますが、「神の子」(神さま)と信じることができるのは簡単ではないのです。でも、それがキリスト信仰の究極の領域だと思われます。新約聖書はそのために書かれたと言っても過言ではないのです。


天国に行ってみんなに会う時、みんなでワイワイしている時、たぶん松田先生は後ろの方で番を待っているだろうと想像しています。先生はそういうお方です。・・・みんなもそうだと思いますが、私も先生に愛されたひとりでした。


5:1 イエス様はキリスト、すなわち、神の子であり救い主であると信じるなら、その人は神様の子供です。 父なる神を愛する人はみな、神様の子供たちを愛するはずです。」(リビングバイブル、ヨハネの手紙一5章1節)


文責: ロバート イー

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