主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

ピース・オファリングという言葉の深遠さを知る


<アメリカの中の日本の列島>


私は、アメリカの会社で長く働いていたので、日系の会社に入った時は、カルチャーショックを受けました。日系の会社は、本社(日本)を中心に働いているのです。更に、それに加えて、私はそれまで船会社で輸出入のマネージャーをしていたのに、こんどは製造会社だったのです。


この会社は、日本語と英語を話す人を欲しがっていて、私が輸出入しかわからないと言っても、すぐに学べるからと言われ、高額の給与に魅せられて、生産管理部の次長(部長見習い、すぐ部長になりました)として入社したのです。でも、学ぶことは山ほどありました。事業計画・生産計画・購入・生産・出荷・原価計算・在庫管理などなどです。これまでの経験が役に立ったのは、日本からの原料の輸入とか各地への出荷ぐらいでした。


この会社の配属序列は、本社の社長―海外事業部部長―アメリカの社長―事業部長―生産管理部長―次長―(複数の)製造課長という具合ですが、部長になって“事業計画・生産計画”をするようになると、これが製造会社の要(かなめ)だということがわかります。それで、夜おそくまで、よく学び、よく働きました。そういった意味では、私の働きの人生では最も充実した時だったかもしれません。その頃のF社長には、とてもかわいがっていただきました。


<入社試験は、入社してからある>


アメリカの会社でも途中から入るマネージャーというのは、いじめられる(?)のです。いわゆるテストされるのです。「お前にマネージャーの資格があるのか?」と試されるのです。「ちゃんと仕事ができるのかよ?」という訳です。それを乗り越えなければその会社でやってゆけないのです。だって、そこの人たちも面白くないじゃないですか、自分たちの中からマネージャーが選ばれずに他所からどこの馬の骨かわからないやつが上にくるのです。


この会社は、日本語の読み書きができる人を必要としていました。ほとんどの資料は日本語で、連絡も日本語でした。毎日のFAXも日本語がほとんどでした。それでも、「こいつ、日本語はできても、製造の仕事はできないのじゃないか?」という雰囲気は感じました。特に製造課、購入課や原価計算課などは、「お前にゃわからないから、さっさと承認のサインをしろよ」という感じ、質問にもろくに返事されない。


勿論、クリスチャンの私ですから、“敵を愛せ”でにこやかに対応したと思うでしょうか? それが違うんですね。“負けてなるものか”という敵愾心が起こってくるのです。それで、仕事を学び、誤りを見つけては指導するようになり、仕事ができない者は、リストラ時にはやめてもらいました。・・・重要なことは、いわゆる好き嫌いで物事をすすめるのではなく、いつも客観的な判断でなしたということを自分で持っていたいと思いました。「彼奴、なまいきだから首にしよう」というのはいけないのです。そんなことをすれば、後で、それが自分にかえってきます。


<ピース・オファリング、初めて聴いた言葉>


私の下に数人の製造課長がいて、それぞれの製品を製造していたのですが、その中にFaith Smithという女性の課長がいて、自己紹介した時、「Faith」という名前なので “Faithって、クリスチャンですか?”と訊いたら、“親がつけた名前です”という返事でした。全然、フレンドリーでないんです。


具体的な事例が思いだせないのですが、このFaith とやりあったことがありました。たしか購買課のミスで資材が届かないので生産ができないという事態がおきたのです。それで、たしかFaithに製造計画の変更をお願いしたのですが、その返事が“けんもほろろ”だったのです。


だいたいこれは購買課の問題で、次長が出る必要はないのです。ですが、製造の問題は、すべて私の問題です。その時のFaithの私に対する対応は、尊敬のかけらも感じさせないものでした、rude(無礼)ではないけど polite(礼節、思いやり)ではありませんでした。さらに、問題は彼女の主張が100%正しかった。つまり、購買課の上司である私の責任が問われていたということでした。それで、私はすごすごと自分の席にもどる羽目になったのです。これは、私の数少ない敗戦の記録となり、購買課の改善に着手しなければならなくなったのです。



その数日後、Faithが私の机の前にきたと思うと、スーっと小さなチョコレートを机に置いたのです。“What is that?”と私が訊くと、Faithは、“It’s a Peace Offering”と答えました。「Peace Offering」という言葉を聞いたのは、この時が初めてで、“平和”+“捧げる”という単語を頭にうかべて、ようやく、“仲直りしよう”という意味だなと思い、“Thank you”と言ったら、Faithは何事もなかったようにたち去っていきました。


それで、Peace Offeringといったら、あのチョコレート(多分、See’s Candy)を思いだすのです。Faithは、信頼できる部下でした。決して媚びることなく、必要なことは何でも協力してくれました。


<聖書にもこのPeace Offeringが出てきます>


旧約聖書では、神さまに動物や植物がささげられ、神さまとの良き関係を保つようにされました。新約聖書では、その延長として、更に恒久的(永遠の)供え物としてイエスさま自らご自身をささげられたたのです。


この十字架の贖いにより、私たちは、神さまと永久に“平和”にすごすことができるようになったと聖書に書かれているのです。


この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。」(ヘブル人への手紙10章10節)


文責: ロバート イー

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