主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

人生の危機に、全力で走るその時を大切にしたい


傘がない 井上陽水


この歌「傘がない」は、みごとに構成された散文詩。日本的なシャンソンです。念のため、歌詞をつけました。
♪~
都会では 自殺する若者が増えている 今朝来た新聞の片隅に書いていた
だけども問題は今日の雨 傘がない 行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ
君の町に行かなくちゃ 雨にぬれ つめたい雨が 今日は心に浸みる
君の事以外は考えられなくなる それはいい事だろう?


テレビでは 我が国の将来の問題を 誰かが深刻な顔をして しゃべってる
だけども 問題は今日の雨 傘がない 行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ
君の家に行かなくちゃ 雨にぬれ つめたい雨が 僕の目の中に降る
君の事以外は何も見えなくなる それはいい事だろう?


行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ 君の町に行かなくちゃ 雨にぬれ
行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ 君の家に行かなくちゃ 雨の中を
行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ 雨にぬれて行かなくちゃ 傘がない


雨に濡れながら行く”というのは、象徴的な表現ですね。危機に際してなりふりかまわず全力で何とかしようとすることです。・・・誰でも“雨にぬれながら走らなければならない”時があると思います。身体も心もびしょびしょになって走る時がある。


そう、この歌を聴きながら、私が最初に思いだしたことは、“結婚することにしました”と大学でお世話になった尾形先生のお宅に報告にいった時です。新大久保の駅の公衆電話で“今から伺ってよろしいですか”と訊いて、同じゼミで一緒だった後の妻と一緒に先生のお宅に伺いました。


先生に仲人をお願いしたのでなく、ただ “ふたりで結婚することに決めた”ということを告げたかったのです。まだ、誰も知らないことでした。当時の日本の社会では、韓国人(朝鮮人)と日本人の結婚を歓迎するという情況ではありませんでした、反対されるのを承知で、自分たちの意志(責任)で結婚します、とお伝えしようと思ったのです。


そこにたまたま、東大の何とか言う助教授がいて「君たちの結婚が及ぼす社会的意義について考えたことがありますか?」と、にやけた顔で言ったので、(心の中で “この愚か者めが”と罵りながら)「結婚なんて動物の本能にすぎません」と答えたら「君がそんなにレベルをさげるんじゃしょうがないな」と引き下がりました。


その次にしたのが妻の両親に“結婚したいのですが”と言いに行ったことです。勿論、賛成してくれるわけはありません。自分たちの気持ちを告げただけでした。その間3度「娘に対するご好意はありがたいですが、この話はなかったものと思ってください。」と彼女の父から慇懃無礼に断られました。・・・歩道に敷かれた雨に濡れた銀杏の落ち葉を踏みながら帰る時の気持ちは、びしょびしょでした。


それなのに、私たちは奇跡的になんとか結婚にこぎつけてアメリカに留学することになったのですが、世界はベトナム戦争で揺れている時でした。そんな時に私たちふたりは(この歌のように)“傘がない”といってさわいでいたのです。二人とも必死だった。


<神さまに出会う>


私たちは、アメリカにきてからも生きていくことだけで精一杯の状態がつづきました。雨の中を傘なしで走りつづけていたのです。そして、そんな“嵐”の中を通りぬけながら、ふたりは神さまに出会ったのです。


韓国の領事館で助けてくれた金東明牧師の奥さん、安利淑先生の本「たとえそうでなくとも」を読んで、妻は安先生のようになりたいと言ってクリスチャンになりました。


で、私は(その数か月後に)同じ教会の安藤さん(今は牧師)の賛美「我さえも愛したもう」を聴いて、”本当に、神さまが私を愛し、私のために十字架で私の罪をあがな ってくださったのなら、・・・それが、本当のことだったのなら、神さまを信じたい”、とそう思ったのです。


それ以来、ふたりは、行かなくちゃ 主イエスに逢いに行かなくちゃ 雨にぬれて行かなくちゃ・・・になったのでした



前方に、雨にかすんで見える、イエスさまをめがけて、私たちは走ってきたのです。もう50年あまり走り続けているんです。・・・そして、ふと気づいたことは、遠くに見えるイエスさまもずぶぬれになっている。・・・イエスさまは私たちを迎えていてくださっているのですね。



・・・あっ、見えてきました。ようやく光が見えてきました。このぶんだと、もうすぐイエスさまに会えそう。そうです、イエスさまに会うころには、きっと太陽が燦燦とかがやいていることでしょう。



わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。(第一コリント13章12節)




文責: ロバート イー

×

非ログインユーザーとして返信する