主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

神さまは、やさしいお方なのか怖いお方なのか?(基本的な話です)

(イスラエルの岩のドーム 2013年)


<神さまがわからなくなる>


誰でもすごく悲しいことに遭遇すると、どうして神さまは、こんなことを許されるのかと悲しくなるし、神さまの愛を疑いたくなります。神さまは本当に愛の神さまなのかと思います。


ある方のひとり息子が殺されました。どうしてなのか誰に殺されたのかもわからない。その方は駆け付けた牧師に“私はもうクリスチャンをやめます”と言ったら、牧師は何も言わずに“わーっ”と声を出して泣かれたそうです。それで、その姿をみて、彼女は自分の信仰を持ち続けることができたという話を聴きました。


昔はよく求道者の方たちから「旧約聖書の神さまは“怖い神様”で、新約聖書の神さまは“優しい(愛の)神さま”ですね」と言うのを聞きました。最近の求道者からは、そういうことを聞きませんが、みなさん聖書をちゃんと読んでないのではないかと心配になります。


旧約聖書には、神の正しさと絶対さがめんめんと述べられています。神さまの正しさは絶対なのです。否。究極的な“正しさ”は神さまにあるのです。


<私は、ヨシュア記に躓きました>


旧約聖書を読みだして、創世記、出エジプト記、レビ、民、申命記と読んできて、ヨシュア記に入ったところで、私は、躓(つまず)きました=わからなくなりました。どうして 神さまは、イスラエルの民に先住民のいるカナンに攻め入れと言ったのでしょうか?


神さまは、カナンよりももっといい場所を用意することができたはずです。それなのに、なぜエリコの町を滅ぼせと言われたのか。それも容赦ない残酷なジェネサイド(無差別多量殺害)なのです。女子・子供・幼児、みんな虐殺されたのです。ヨシュアが送った斥候(スパイ)を助けた遊女ラハブの家族以外はすべて殺されたのです。


その後に続く、士師記でもサムソンなどは残虐至極です。その他のところでも気にいらないことがたくさんありました。私は、「神さまの愛」から求道しはじめたものです。それなのに、旧約聖書の神さまは決してやさしくない。畏れ多い絶対的な主権者なのです。


<「神の粛清です」と言われました>


このヨシュア記の問題にスパッと答えた先生がいました。中尾邦三先生です。先生は、「それは神の粛清です」とおっしゃったのです。“神の粛清”。「粛清」=「厳しく取り締まって、不純・不正なものを除き、整え清めること」というのです。癌の治療のように、悪いところは、切り取って捨てなければならないというのです。


ヨシュアの時代、士師記の時代、王政がはじまった頃も、正しさは、“勝つこと”でした。どっちの神さまが本物なのか、それは戦争に勝たせてくれる「神」なのです。当時の人々は、そういう「見えるかたち」でないと理解できない人々でした。つまり、力により偶像礼拝する者たちを排除するのです。


当時の価値観からすると、真の神は、強い神さまなのです。だから、この神さまにより頼み、礼拝するのです。この時代は、神の存在と神の正しさを認識する時でした。そして、人は神さまに全面的に従うことが要求されたのです。基本的にそれは今も同じですが、でも、それは、神さまが人類を愛されたからだということが土台になっているのです。


<粛清から神さまの愛に>


旧約の終わりから新約の始まりまで400年かかりました。あの旧約最後の預言者といわれる、バプテスマのヨハネも新約(新しい約束)を十分理解できずに殉教したように思います。そういう意味で旧約と新約には大きな違いがあると思います。


だから、聖書全体を理解するために重要なことは、新約聖書の「神は自ら“人間の罪”を負って、人間を赦した」という“贖罪”と“福音”(赦し)ということを大前提にして旧約聖書読むことが必要です。そうすると旧約聖書の中に「神さまの愛(慈しみ)」が見えてくるのです。


たとえ、ひとり息子が殺されても、発達障害の子供が与えられ苦労することになっても、癌で苦しい治療しながら召されるはめになっても・・・神さまの愛を見失うことはない。神のみ言葉にはそういう力があるのです。


逆に、旧約聖書的視点から新約聖書を読むと辻褄があわなくなります。あの律法学者やパリサイ人のようになります。イエスさまの教えを理解することはできない。(だから、ユダヤ教とキリスト教は交わらないのです。)


<福音とは何か>


“福音”とは、「神さまがもう人間の罪を裁かない」ということです。“えっ”と驚かないでください。それが「福音」(良い知らせ)です。イエスさまが人類のために贖いの供え物として十字架で死にました。だから、私たちの罪については(もう)裁かれないのです。
5:8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。 5:9 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。5:10 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。』・・・神さまと人類は“和解”したのです。(ロマ5:8~10)


<でも、救われるための条件がある>


罪は赦されているのですが、救われるための条件が一つあるのです。その条件とは、私たちが神さまの救いの手にすがる必要があるということです。それが“信仰”と言われていることです。これが案外に難しいのです。自分は救われる必要がないと思っている人は、その手にすがることはないのです。そこに、救われる人と救われない人との違いが出てきます。


聖書にこう書かれています。『9:27 ・・・一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、 9:28 キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。


“なんだ、結局、裁かれるんじゃないか!”


<旧約と新約の裁きの違い>


旧約では、「人の罪」が裁かれました。徹底的に裁かれたのです。ところが、新約では、その罪は(イエスさまによって)赦されたのです。ただ、その特権”を受け取るか否かは、その人によるのです。それは、その人が最終的に選択しなければならないことなのです。それが「信仰」です。


私は、人の本能を信じています。私たちが最後の審判の被告席に着くとき、すべてが明らかになる時、人は神に立ち返るにちがいないと。


神はそのひとり子をたもうほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じるものはひとりも滅びないで永遠の命を得るためです。』(ヨハネの福音書3:16)


文責: ロバート イー

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