主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

日本文化のユニークさ、それを私は体験し体得したのです


<日本文化の特異さ>


日本は、あの明治維新の激動の中で、(近代国家の圧力に負けないで)日本的な考えを維持してきました。そして、その結果、日本は、近代と前近代のモザイクのような文化をつくりあげてきたと言えます。(丸山真男の「日本の思想」を参照)


私は、たまたま日本に行って、そのユニークさをつぶさに体験したわけですが、外国人にとっては、今でも“日本”という国は、fascinating(魅惑的)なところだと思います。


よく言われるように、日本は「本音と建前」の世界ですし、「忖度」(相手の心を思いはかる)の世界でもあります。それで、すごく優しいところがあると思いきやすごく残酷なことを平気でする民族でもあります。


<私は、そういう不思議な文化に魅了されたのです>


何遍も言うようですが(歳を取るとそうなる)、私は7歳の時に日本に行ったのです。父の仕事が終われば韓国に帰れる思っていたのに、日本にとどまるようになったので困りました。だって、(理由なく、否、韓国人だという理由だけで)私は、日本人に嫌われ毎日暴力を振るわれていたのです。だから、日本人を日本の文化を好きになれる訳はなかったのです。


なのに、日本の文化にふれ日本文化を体得するようになった。・・・


私が日本文化にふれたのは、「日本食」からでした。家では、日本食を食べませんでした。朝はパンとハム、ベーコンと卵などで、みそ汁などは食べたことがありませんでした。そんな私が、そば屋に入って“タヌキそば”を食べた。こんな味は初めてでした。感動したのです。・・・お寿司も食べた(ワサビで死にそうになったけど)、てんぷらも美味しかった。35円のラーメンも・・・みんな美味しかった。


この日本食は、私が日本人を受け入れる起点になったと思います。言ってみれば、「こんなおいしいものを作れる日本人はすごい」という感動が日本人を見直すきっかけになったのだと思います。


でも、日本人は理解できない人種で “何を考えているのかわからない”(いつも悪いことを考えている)と思っていました。何もしていない私を目の仇にしているんですから。でも、日本食は大好き。これはOKだったのです。


<古典落語をよく聴きました>


そんな私に日本人の考え方(思想)を教えてくれたのが、古典落語でした。友達もなく韓国にも帰れない私に日本文化を教えてくれたのが、ラジオから聞こえてくる古典落語でした。それも人情噺です。噺がうまいというだけではなく、おもしろいということだけでなく、私の琴線に触れたのです。そう、(遊郭も知らない)10歳そこそこの私の心に(落語は)人生の機微やもの悲しさを教えてくれたのです。


私は日本人の感性を理解し、共感したのです。共感ですよ。ぼろぼろと涙を流しながら噺を聴いたのです。・・・


国とか民族とか人種といった問題の中で悶々としていた私の心の中に「どこの人の心にも共通するものがある」ということを確信させてくれたのです。


ちなみに、私たちが嫌われたのは、韓国人ということより、私たちが豊かだったからだと思います。韓国(朝鮮)からきた奴が自家用車を乗っているんです。その頃、そんな人は少なかった。当時、自分が日本人だったら、そういう人たちを憎んだにちがいありません。


“無理もなかった”ということが中学生の頃にわかってきたのです。そして、そのおかげで自分は少しは考える者になったのです。・・・もしあの後、タヌキそばを食べることなく、人情噺をきくことなく、韓国に帰っていたら、まちがいなく反日のリーダーになっていたにちがいないのです。


<神さまは人を創られました>


神さまは、神さまの息を土くれに吹き込んで、人に”命“を与えたのです(創世記2章7節)。「人種」などというのは後からできたものです。人の心には共通なものがあるという根拠はここにあると思います。


だから、日本語のわからない外国の宣教師が語るカタコトの「神の福音」が心に響くのです。・・・「カミサマは、アナタをアイシテイマス。アナタのタメにジュウジカでシニマシタ。アナタがイキルタメデス。」・・・神の言葉は普遍です。人の心も普遍なのです。


日本人ほど伝道しにくい人種はいないというけれど、それは本当ですが、でも、それは“日本人”だからではなく、日本の文化、日本の社会が「福音」(救い)を拒んでいるからなのです。その証拠にアメリカにくる多くの青年は、難なく「神の福音」(救い)を受け入れ、牧師にさえなるのです。


救われた日本人は日本人をやめたわけではないのです。外国かぶれしたのでもありません。何も違わないのです。ただ、神の存在を知り、その神さまと共に生きるということを知っただけです。


もし、変わったことがあるといえば、“希望”をもったということです。「永遠の希望」です。世界中の人々、さまざまな文化の中で、違う言葉を使い、違う風習を受け継ぎ、違う食べ物を食べる人々が共通の希望を持っている。それが「神の福音」です。


この世を生きるということはけっして楽なものではありません。楽しいこともあるけれど苦難の人生です。そんな私たちに神さまは「希望」を与えてくださいました。それは、憎しみあうのでなく、愛しあう希望です。殺しあうのでなく助け合う希望です。そして、互いに手をとりあって御国に凱旋する希望です。


神さまは、私たちを御国に迎え入れてくださるのです。そして、私たちは愛する人たちと再会することができるのです。


この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』(ローマ人への手紙5:5)


文責: ロバート イー

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