主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

眠りは神さまがくださるものー(眠られぬ夜のために)

   (預かったノラの子2匹はいつも一緒、一緒にもらわれていきました)


<ぐっすりと眠れる事ほど幸せなことはない>


私が現役の時には、よく眠れた日はあまりありませんでした。いつもいろんな問題を抱えていたので、数時間寝たかどうかというような時を過ごしていました。完全に徹夜をしたこともよくありました。


たまに朝までよく眠れると、何か良いことがありそうで、幸せな気分になります。


今頃の若い人たちは、そういう忙しい生活が原因で離婚するのだそうです。私たちの頃は、必死で生きることに意味があったものですが、時代はかわってきたみたいです。


<聖書に、睡眠は神さまがくださるものと書かれています>


【口語訳】『わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです。』(詩編 4篇8節)


私は、引退して、仕事のプレッシャーもなく自由に聖書を読めるようになって、ようやく毎晩普通に眠れるようになりました。で、以前は、どうしてそんなに眠れなかったのかと(逆に)不思議に思うぐらいです。


仕事のプレッシャーはありました。偉くなればなるほど責任は重くなります。でも、どうしてそれを神さまにゆだねるということができなかったのだろうかと思うのです。


実際、引退した今でも、問題や課題はあるのですから気にすれば、心配で眠れなくなります。問題の大きさや質の違いなど関係ないのです。気になれば頭がさえて、堂々巡りの渦の中に紛れ込んでいくのです。


ベットに入って電気を消しても、頭が冴えてなかなか寝付けない時、神さまはおっしゃいます「もういいから、すべてを私にまかせて寝なさい」「私にまかせなさい」と。でも、それが、”神さまにまかせる”ということがなかなかできないんです。


そうです。心配しても、思い悩んだとしても、何も解決にはならないとはわかっているのに、です。


<信仰は賭けです>


私は賭けがきらいです。どうなるのかわからないのが嫌なんです。ミステリーの本も最後から読みたくなる。


でも、信仰者とは、神さまを信じる人です。その神さまにあなた自身をゆだねられるかどうかが大切なのです。もしあなたの神さまが本物であれば、その神さまはあなたがゆだねた問題を解決してくれるはずです。あなたが思ったような結果にならないかもしれないけど、解決してくれるはずです。


信仰とは、神さまに私の人生をゆだねるということです。神さまに賭けるのです。神さまが本当に実存して、あなたの人生を本当に導いてくださるのか試してごらんなさい、というのです。それが演繹法ということです。聖書のみ言葉を現実の自分の人生に当てはめてみるのです。


神さまに任せておやすみなさい。そして、明日どうなるかごらんなさい。聖書に、「一日の苦労は一日で十分です。明日のための心配は無用です」(新改訳、マタイ6:34)と書かれています。


中野雄一郎先生が、先輩の塩田彰先生が「天命に安んじて人事を尽くさん」と言ったと教えてくださいました。「人事を尽くして、天命を待つ」ではないのです。"何よりも先ず、神さまの守りと導きを信じて、明日を恐れず、安心して努力していくのだ”というように解釈することができると思います。


あなたが今晩、安らかにぐっすりとお休みになれますように!Zzzz・・・ 祝福を祈ります。


文責: ロバート イー

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