主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

救いの喜びは永遠に途切れることのない喜びです

(「あふれる歓び」です。クリスマスカードから)


<救いの喜び>


神さまの救いは、完全で永遠です。御子イエスは、私を愛し、私のために苦しまれました。それによって無罪放免になりました。そして、すばらしい天国に招き入れられるのです。これが福音(良い知らせ)と言われることです。これは、本当のことです。何かのスローガンではなく、本当に本当なんだと知る時、私たちは言葉では表現できない歓びにみたされるのです。


ところが、その喜びがどんどんと薄くなって、本当に救われたのかどうかも定かでなくなってくる、ということがあります。


その一番の理由は、サタンです。悪霊です。「おまえは、(どう考えても)救われるのにふさわしいものではないぞ」とささやくのです。「そんなんでよくクリスチャンなんて言えるのか」というのです。


サタンの別の名は、訴えるものです。悪魔は、私たちのダメなところを私たちに指し示します。


姦淫をしている者は、言われなくても罪を犯しているのを知っています。神さまが嫌われることをしているということをクリスチャンなら言われなくても知っています。だから、サタンは「もうこれで何回目じゃないか、神さまは、もうお前を許さない。おまえは終わりだ」と告げるのです。


〽わかっているけど、やめられない〽。天国(?)で植木等が歌っています。


それで、落ち込む人もいれば、ケツをまくって、“だからどうだってんだ!”という人もいます。


<懺悔とか告白って何ですか?>


それで、キリスト教会の中では、“懺悔”とか“罪の告白”というのをやるところがあります。私は、ホーリネスですから、懺悔はありません。ただただ、 “きよめ”ということが強調され、かぎりなくイエスさまのようになることを教えられます。


カトリック教会には、懺悔室があって、信徒はそこで正直に自分の罪を告白し、祭司は、神さまの名代として、“赦しの宣言”をします。・・・いつだったかテレビで殺人者が懺悔室に飛び込み懺悔するというドラマを見たことがあります。その祭司は、彼の殺人を目撃したのですが、彼の告白を聞き「赦しの祈り」をしなければなりませんでした。それで、その祭司は、彼の犯罪について一切公表できなくなるという話でした。・・・カトリック教会における「懺悔」というのはそれだけで神聖なのです。


ある教会では、(公の)「罪の告白」というのをします、みんなで読み上げるのです。それが礼拝のプログラムに書かれているところと、プログラムとは別の祈祷書に書かれているところがありました。それをみんなで唱和すれば、“罪が赦される”というのですか(?)、それで教会の礼拝が神さまに受け入れられるというのでしょうか、よくわかりません。


<悔い改めるとは何か?>


「悔い改める」と訳された聖書の原語(ギリシャ語)は「μετανοέω(メタノエオ)」で、そのもともとの意味は「方向転換」です。“悔いる”という意味はなかったようです。要は、悔いても戻ってこなければダメなんですね。それがあの放蕩息子とイエスを裏切ったイスカリオテのユダの違いです。ユダは、悔いて首をくくって死んでしまいました。


お腹をすかして家に帰った放蕩息子と、取り返しのつかない罪を悔いて首をつったユダ。どっちが真摯に悔いたのか、どちらが責任を感じたのか。それは明らかにユダの方です。でも、帰ってきたのは、放蕩息子でした。


畑仕事から帰ってきた長男は、さんざん放蕩して無一文になって帰ってきた弟のために宴会が開かれているのが気にいりません。わけがわからない。息子が放蕩してきたのをお父さん(神さま)がほめているようじゃないですか。


カンカンに怒っている兄に、お父さん(神さま)は言います「あなたの弟は、死んでいたのに生き返った。だから、祝うのだ」。多分、お兄さんは、心で言います「あんな奴は死んでしまったほうがよかったんだ」。


<懺悔は空しいのでしょうか?>


あれは、映画 Godfather の最終回でしたか、アルパチーノ扮するマフィアの親分が ローマ教皇に尋ねます「いくら懺悔しても同じことを繰り返すなら、何のための懺悔ですか? 何の効果があるのでしょうか?」(Good questionですね)・・・教皇は応えます。「What have you got to lose」(懺悔して失うものが何かありますか?)


この会話から、私は、「何百回同じ懺悔をしても神さまは(喜んで?)何百回も赦します」と答えられたように聞いたのです。「だから、懺悔すべきなんだ」と思ったのです。そして、それだから、(平気で)同じ罪を犯し、同じ懺悔を毎週することができるのだなとも思いました。


私は、懺悔を否定していません。でも、懺悔は、神さまと私との間で交わされるものだと思っています。そういう意味で私はいつも神さまの前にひざまずいています。神さまの前に座れば、それが懺悔なんです。そして、(許されたら)あの喜びをとりもどすのです。サタンや悪魔の中傷など(ほんとうのことだけど)そんなものには負けないのです。


要は、サタンのように、自分をせめ、人をせめないことです。それで、自分は敬虔なクリスチャンだなどと思うのはやめたいと思います。・・・ある修養会で、ある方が「自分は罪深いものです」と言った時、その人をよく知っている人が「本当にそうですね」と言ったら・・・「お前にそう言われる筋合いはない!」と怒ったそうです。


みんな本当のことを言われると怒るんです。プライドがあるからです。プライドのない人はいません。本当のことを言われると怒る。だから偽善者なんです。敬虔さと偽善さ、その違いがどうしても判らない人がいます。そういう牧師がいるんですよ。そういう人たちは、どうしても謝らせたいのです。(自分のことは棚に上げて)


イエスさまは言われます「安心していきなさい」と。You are OK, I am OK、なんです。それが福音です。放蕩息子のテーマは赦しだけじゃなく歓びなんです。神さまの喜びです。


文責: ロバート イー

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