主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

神さまは普遍で私たちを愛してくださっていますと聞きますが、どこに居られるのですか?


<神さまはどこに行ってしまったのでしょうか>


ロスアンゼルスのダウンタウン、Wilshire Blvdで働いていた頃、近くに大きな教会がありました。いつか行ってみようと思っていましたが、ついに行きませんでした。昔々数十年前の話です。


その教会は、結構大きな、石造りの教会でした。そして、その建物の角に礼拝時間などが書いてある表示版があり、礼拝説教の題が書かれていました。いつも目をひくウイットに富んだ題が書いてありました。


丁度、夏のさかりでした。「God went on Vacation(神さまはベケーションに行ってしまった)」という説教題が書かれていたのを覚えています。是非、聴いてみたいと思われる題じゃないですか。“神さまは毎日のストレスで、ついに休暇をとってどこかに行ってしまった”という題です。毎日あくせく働いていた私たちの気持ちを汲むような題でした。


<神さまを発見する>


神さまを信じているかいないかは、神さまを意識して生活しているかいないかなのです。つまり、意識しなければ存在しないのです、もしあなたが大きなスーパーマーケットで誰かをさがしていたら、その人以外は存在しない。それを主体・客体の関係といいます。


神さまは、私たちがその神さまと会うために、神さまの御子イエスをこの地上に送られました。そのイエスさまは、私たちすべての人類を救うために十字架につけられたのです。


そのことを、あなたは信じられますか?そうですよね、そう簡単には信じられるものではありません。でも、それを信じることができれば、あなたの人生はかわります。右往左往する群衆の中に神さまを見つけ出すことができます。


あなたは、急いで人々をかきわけながら、見失わないように神さまをしっかり見つめて近づいていきます。でも、その神さまが忽然と消えてしまうということがありませんか?それは、私たちが自分の知覚で神さまを探し求めているからなんですね。


神さまは、(実は)いつも傍におられるんです。ベケーションに行かれるお方じゃない。多分、その教会の牧師先生は、そういうお話をされたのではないかなと思っています。


<神さまは私たちを見捨てられません>


私たちを創られた神さまは、私たちを見捨てられません。私たちが苦境の中に立たされていればいるほど、近くに居られるお方なのです。私のささやかな信仰生活から、そういうことが言えるのです。


御子イエスが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた時、全地は闇に覆われました。これは、私たち全人類の贖いの時でした。神さまは、御子を見捨てて私たちを救ったのです。あなたはそれを信じますか?それは“犠牲”ではないのです。「神の愛」は、犠牲よりも(はるかに)すぐれたものなのです。そして、それは完全なものです。


(府中の聖マルコ教会に掲げられた木版のイエス像)


だから、神さまが私たちを見捨てることはないのです。いつでも、どんな時でも・・・それだから、私たちは、神さまの聖名を賛美するのです。・・・主に栄光がありますように。


文責: ロバート イー

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