主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

天国どろぼう、大歓迎です。

(「天国と地獄」オッフェンバック https://www.youtube.com/watch?v=HTjnFbdQna4)


<天国と地獄>


昔は、よく親からそんなこと言ったら閻魔さまに舌を抜かれるとか、そんなことをしたら地獄に行くとか脅(おど)されたものですが、聖書にも天国と地獄があると書いてあります。そして、それは、単なる脅しではないというのです。天国は(極楽は)いいとこですが、地獄はつらいとこで(もう一度)死んでしまいたいようなところだそうです。


「死んだ後、私たちはこの世での自分の行いよって裁かれる」と聖書にも明確に書かれています。(ヘブル書 9:27)


<救いとは何か>


私たちは、つい嘘をつき、つい悪いことをしてしまいます。わからないですることもあり、わかりながらもそうする時もあるでしょう。そういうことがつぶさに調べられて、裁かれるというのですから、たまったものじゃありません。


そんな具合では、だれが天国に行けるというのでしょうか。誰もいかれません。それで、そういう私たちを救ってくださったお方が、神さまの御子イエス・キリストだというのです。これが「救い」ということです。簡単でしょう。


<天国どろぼう>


妻の母の葬式で、初めて「天国どろぼう」という言葉を聞きました。カトリック信者の“Y姉さん”と呼ばれていた親族の方が、死ぬ前に急遽“病床洗礼”を受けられる人たちのことを(カトリック教会では)「天国どろぼう」と呼ぶのだと言うのでした。


教会に行ったこともない献金もしたことがない人が“洗礼”を受けて、天国に行く。天国にいく資格がない者がスニークイン(そっと忍び込み)するという感じなのでしょうか。


カトリック教会で洗礼を受けた方の話ですと、洗礼を受ける前に、彼女を指導する司祭が指名され、その司祭によって徹底的な学びと訓練がなされるのだそうです。聖書を学ぶというより、カトリックの教理を学ぶのですね。そして、チャンとした(決められた)手続きをとって洗礼を受けるのだそうです。プロテスタント教会でも洗礼準備会がもたれますが、その程度はまちまちだと思いますが、こんなに徹底的にされてはいないと思います。


そんな厳しいカトリック教会でも、このコロナ禍で司祭が病院に入れないという場合は、カトリック信者の奥さんが病めるご主人に(代理として)洗礼をさずけるということが行われるのです。(このことは、以前のブログに書きました)


<最も有名なイエスさまのたとえ話>


イエスさまの最も有名なたとえ話は、「放蕩息子」の話です。お金持ちの息子2人の話です。次男が相続すべき遺産をもらって遠くに行き、散財して、無一文になって帰ってくるという話です。そのボロボロになって帰ってくる息子を見て、父親は駆けていって抱きかかえるという話です。そして、大祝宴がひらかれたのです。


ところが、仕事から帰った長男が“この騒ぎはなんだ?”と訊いたら、次男が帰ってきたので祝宴が開かれていると聞いて、カンカンに怒って家に入ろうとしなかった。


父親は、家から出てきて、長男に「私のものはみなあなたのもの。あなたの弟は、“死んでいたのに、生き返ったのだから”喜び祝おうじゃないか」と語るという話です。この父親は、天の父なる神さまのことでした。


<許されて生きる喜び>


キリスト教会の教義として、救いは許されるということです。でも、私のように「神さまは、私を愛してくれた」「私を見守り、私を導き、私を助けてくださった」というところから信仰に導かれた人たちも多いと思います。


どういう入り方をしたとしても、神さまの存在を知り、神さまとともに生きるという恵みを経験するというのは、言語につくせない幸せです。たとえどんな苦難にあったとしても、行きつくところは天国なんですから。


<天国どろぼう大歓迎>


神の福音(救いの言葉)を聞くチャンスがなかった人たちも、聞いたけど受け入れることができなかった人たちが、死ぬ間際に、天国に行きたいと思い洗礼を受ける。いいじゃないですか、天国だって入ってしまえば、こっちのものです。


あと数日で死ぬと言われた人が、死ぬ間際に福音を聞いて救われ、洗礼を受けたら、美しくなったという話を書いたことがありますが、実際にあった話です。安心して朗らかになっただけでなく、美しくなったのです。


イエスさまは、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」と言われました。イエスさまは、天国どろぼうを大歓迎してくれます。私もその病人の一人ですが、日々癒されています。


文責: ロバート イー

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