主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

ヨハネ伝の「姦淫の女」の記事の中にひとりの女の悲惨な人生が見えてきます

<「姦淫の女」の話は、残忍な人たちの企みでした>


律法学者やパリサイ人たちが、イエスさまを訴える口実をつくるために、姦淫の現場で捕えた女をひっぱってきて、イエスの前に立たせました。そして、「律法では、こういう女を石で撃ち殺せと命じていますがあなたは、どう思われますか」と訊きました。


もし、“殺すな”と言えば、イエスさまが律法をまもらない人だということになり、“殺せ”と言えば、その場で石が投げられて、その女は無残に殺されます。そして、イエスさまは、(残酷なことをする人だと言われて)群衆の人気を一度に失ってしまいます。 


<姦淫した相手の姿がない、夫の姿もない>


「姦淫してはならない」という戒めは、神さまが人類に与えた最初の戒め、“十戒”の7番目の戒めです。そして姦淫した者は(石打の刑で)殺されるとレビ記の20章10節に書いてあります。姦夫・姦婦ともに殺されなければなりません。なのに、引っ張ってこられた者は、女性だけ、男性はどこにもいないのです。


これまで、何度もこの箇所を聖書の勉強会で学びましたが、女性の方がたは、間違いなく異口同音に「“相手の男”はどこに居るのですか、女性だけ引きずりだすなんて不公平じゃないですか!」って怒りの声をあげるのです。そうですよね、姦淫はひとりでは出来ません。


姦淫は姦淫です。でも、相手の男性の姿は見えないし、(被害者の)夫の姿もない。で、これはあくまでも推察ですが、その相手は、イエスを訴えることを企てた人たちの仲間だったと考えることができます。彼がその現場を教え、その現場で“この女性”が捕まえられたのでしょう。


<この女性は、既婚者で、いわゆる売春婦ではなかった>


どうしてこの女性の夫の姿も見えないのでしょう。この女性は既婚者だったはずですが、傍に夫がいません。ひとりで生活している人だった。


モーセは、「離縁状を出せば、離婚できると」言いました。それは、その人が再婚できるためでした。もし、その人が妻を嫌い、家から出しても、離婚されていなければ、再婚もできないのです。生きていけません。公に売春婦になることも出来ないのです。


イエスさまは、モーセがそう言ったのは、「あなた方が頑なだからだ」と言いました。そして、「神が合わせられたものを別れさせてはいけない」と言われたので、“そんなの厳しすぎる”と男たちは文句を言いましたね。


この女性が夫の家を追われた者だったのなら、そして、離縁状ももらえていなかったとしたら、この女性は生きていくために“姦淫”をもせざるを得なかったのかも知れません。そして、今日この悪質な陰謀に使われたのです。


<イエスの前に立たされました>


彼女は、自分が死罪にあたるものだということを知っていました。人々は、石を投げようと、うずうずしています。人びとは、“さあ、どうする・・・さあ、どうする”とイエスさまに迫っているのです。


イエスさまの前に立たされた彼女は、「毎日々々、こんなみじめな生活をつづけなければならない自分なのだから、いっそのこと、ここで死んだほうがましだ」と思ったかもしれません。


人々が押し迫るなか、イエスさまは、何も言わずかがみこんで、地面に何かを書きはじめました。人々は、そんなイエスさまに“さあ、言いなさい。あなたは、何と言いますか、この女を殺しましょうか?”と言い続けたのです。


そうしたら、イエスさまは身を起こして、彼らに言われました「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と。そして、また。身をかがめて再び地面にものを書きつづけられたのです。


その言葉を聞くと、彼らは、年寄りから初めて、ひとりひとり出ていき、ついにイエスさまとその女だけになりました。そこで、イエスさまは、身を起こして彼女に言いました「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」女が「主よ、だれもございません」と答えると、イエスさまは、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。


<私は世の光です>


そして、イエスさまは、「私は世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちに歩くことがなく、命の光をもつのである」という言葉で綴じます。


私は、この時代の女性が、夫に追い出された女性がいかに大変であったかということを思わされました。“罪を犯しなさんな”と言われても、生きていかなければならないのです。でも、以後、彼女は何か他のことをするようになっただろうなと思います。


このエピソードを読んで、この世が彼女にとっていかに無慈悲であったかと思わされました。また、イエスさまの言葉がいかに彼女を救ったかと思わされたのです。


イエスさまは、この女性に“婦人よ”、という言葉で呼びかけました。原語のこの言葉 gu,nai)は、イエスさまが、母マリアに対して使われた言葉で、尊敬をこめた呼びかけです。(口語訳では、女になっていますが、新改訳・新共同訳では、ちゃんと使い分けしています。)


彼女は、この呼びかけで、イエスさまが自分を“価値ある人間”として認めてくれているのだと知ったと思います。彼女は、今自堕落な姿をしているかも知れませんが、神さまはすべてをご存知です。


神さまに造られた私たちは、みんな価値があるのです。どんな境遇に置かれたとしても、この世がとんなに辛くあたろうとも、あなたは、わたしは、神さまに愛されているのです。それだけは忘れてはならないと思うのです。


文責: ロバート イー

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