主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

信仰は聴くことから始まると言うけど、その声が音として聴けない人たちもいるのです。

--- 信仰は聞くことによる ---


<その声が音として聞けない人たちも救われるのです>


この若い女性は、生まれつきだと思いますが、音がよく聞こえません。だから、会話は相手の口の動きを読んでするのです。だから、相手が正面を向いていさえすれば、その人と会話をすることができるのですが、音を聞いているのではないのです。大きい音は聞こえても、意味を伝える音ではないのだそうです。


彼女とはじめて会ったのは、もう10数年前になりますが、その時から彼女はクリスチャンでした。自分の娘より若いけれど、信仰という面では、とてもしっかりしている人です。その文章でわかります。


Q:教えてください。あなたは、どのように "御言葉を聴く" のですか? 手話も"音として"は聞こえないんでしょう?(御言葉=聖書の言葉=神さまからの言葉)


A:御言葉をどのようにして、と言われたら少し難しいですが私は視覚的に言葉を得るので、聖書やブログや、文章にされた形あるものから取り入れてます。また会話の中では、音自体は補聴器をつけている時はそれなりに聴こえるのですが、何を言っているのかな?というふうに音が明瞭に音として聞こえないので口を読んで口の動きで言葉を理解しています。


だから見える目と、読む心が与えられている事に感謝ですー。 メッセージは、多少は口から読み取り、残りは紙におこしてもらったものやメールやパソコンで文章におこしてもらったものから理解しているので、イーさんのブログかなり助かります!感謝です✨


R:ありがとう。今、散歩から帰りました。今、神さまからの言葉として聴く言葉について考えているのです。神さまは語り、私たちは、それを聴くわけですので、あなたはどのように聴くのかなと思ったのです。あなたは、画像を音にしているんですね。素晴らしい💕︎


A:最初に信じたきっかけはクリスチャンの同年代の人たちが生活のあらゆる物事に神様を感じながら暮らしてる事を、私にもわかるように口を大きく開けてゆっくり話しながらシェアしてくれて、そこから彼らが信じているものを一緒に見てみたいと思ったから


音を視覚的にシェアしてくれてゆっくり話してくれる優しさ、かつ押し付けっぽくなくて自然だったからすんなり心に入ったのかもしれません。


それまではかなり押し付けが強いクリスチャンの方々との接触もあり、クリスチャンとかキリスト教は嫌だなーと思ったこともありました(^_^;) 全て祈られていたんでしょうけどね。若い時に教会に遊びに行くなり初めて会った牧師先生に、あなたの耳が悪いのは神様だよ!とか言われても耳を気にしてたわけじゃなかったので当時は意味不明に感じましたしねー(^_^;)


そんなこんなでも救われて神様のご計画は素晴らしいですね!!


<聞く耳をもつ者は、聞きなさい!>


聖書に「聞く耳をもつ者は、聞きなさい!」とありますが、音がよく聞こえない人でも“神のみ言葉”は聴こえるのです。・・・聞く耳をもつ者でも聴こうとしなければ(何も)聞こえませんが、・・・“神の言葉”を聴きたいと思う人には、だれでもそれを聞くことができるようです。その耳はすべての人に与えられている、“霊の耳”と言われる耳ですね。


19:11 主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。 19:12 地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。』(列王記I 19:11~12)


神の御言葉には力があります。人を生かし、永遠なる希望を与えます。それが「永遠の命」と呼ばれていることだと思います。


文責: ロバート イー

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