主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり(再アップ)

<漢文は凝縮された詩歌のようです>


私は、7歳の時に日本に行き、家庭教師について日本語を学んだ後、小学校の2年生に編入した者ですが、(中国人じゃないのに)漢文が好きでした。漢字辞典を引きながら日本語を読んだせいでしょうか。


あるピクニックで、中国の御夫妻に、この言葉をどのように発音するのか訊いた時、手元にあった紙ナプキンに書き留めたものをここに添付しましたが、「朝聞道夕可死」は私の記憶違いで、「朝聞道夕死可矣」が正しいようです。失礼しました。


私は、ヘブル語を読もうとする時、漢文の簡潔で凝縮された深い意味を思いだすのです。


朝に人生の「道」(究極的な生き方)を見出したなら、夕べに死んでもいい。・・・ちなみに、これは、儒教の始祖、孔子の言葉(論語)ですが、聖書にも「道」という言葉で信仰のことが書かれています。


<迫害者パウロは、キリスト・イエスに出会った>


かのサウロ(パウロ)は、「この道」を信じるものを捕らえて、抹殺しようとしていた者でしたが、イエスに出会って、彼の人生がかわったのでした。


『使9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、9:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。9:3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。 9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。 9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 9:6 立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」』(使徒行伝 9章1~6節)


サウロは、この体験を通して、パウロ(小さき者)となり、「この道」を伝える人となったのです。


ロバート・イー


06/11/2017▶︎ 主とわたし・・
Posted by SANBI.us

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